解離性同一性障害(多重人格)という心の病を真っ向から描ききった長編小説である。ともすれば筋立てのみでひとり歩きしそうなモチーフを抑えこみ、誠実な筆致で築き上げた玄侑氏の小説世界が胸を打った。折々、荒々しい海と()いだ海、一方で噴火し他方で雪を頂いた山を持つ島々など、自然の多面性が暗示のように描かれる。人格もまた、そうした多面性の融合ということかもしれない。
 さてヒロインは、おとなしい実佐子という主人格のほかに、派手好きでタフな友美と、円満で魅力的な絵里という交代人格を持っている。互いにまったく知らないこともあれば、うすうす気づいていることもある。それぞれの名前を誰が決めたのか不思議に思うところだが、人格が生まれたときにはもうついているらしい。
 人は耐えられない辛い出来事に遭遇したとき、解離することによって乗り越えようとする場合がある。つまり耐えられる別の人格を作るわけだ。実佐子もまた、そういう体験をしてきたのだった。それを掘り起こすことで三つの人格が「合流」していく過程に、読者は引きこまれずにはいられないだろう。三重人格の実佐子の主治医と夫で書き分けられた二つの視点は、そのまま支点ともなって作品を堅固に支えていた。
 人は「わたし」という「物語」を紡いで、過去から現在に至る自分をまとまりとしてとらえる。では、その「わたし」とは何か。近代以降、純粋自我のために結局は自己否定せざるをえなくなった命題でもあることを思い起こさずにはいられなかった。いっそ整合性のないものが人間なのだと居直ったとき、一種の整合性が出来上がるかもしれないとさえ思うのである。
 この春、私は阿修羅像を360度しみじみと眺めた。なんと美しくも哀しいおもざしだろう。その三つの顔に、三重人格を重ねていく本書の仕組みには驚嘆する。自我という哲学的、宗教的でもある命題が、文学的に結実していく瞬間でもあった。


 作家 原口真智子
 
西日本新聞 2009年12月20日