「無人島に小説を一冊だけ持っていくとしたら何を選びますか?」
 以前に雑誌のインタビューで、そんなことを訊かれた。
 僕は大いに困り、「ああ」とか「うう」とか言いながら、フランスの哲学者J・J・ルソーが書いた『エミール』の一節を思い出していた。一人の哲学者が、たくさんの書物といっしょに無人島に流され、そこで余生を送ることが確実となった場合
――その哲学者は≪一生のあいだ一冊の書物もひらいて見ないだろう。しかしかれは、それがどんなに大きな島だろうと、その隅々まで訪ねて見ることをけっしてやめないだろう≫
 物語というのは本来そういうものだ。現実世界で人と触れ合うことがなくなれば、もう読む意味なんてない。現実と地続きであり、実人生において様々な効用を発揮してくれるからこそ価値がある。僕はルソーに倣ってこう答えた
――「何も持っていきません」。もちろんその理由もきちんと説明したのだが、後日ライターさんから届いたインタビュー原稿を見たら、質問ごと綺麗にカットされていた。
 さすがにちょっと理屈っぽすぎたかなと苦笑しつつ、ふとこんなことを思った。
「無人島に持っていきたくない(_ _ _ _ _ _)小説は何だろう?」
 答えはつづけざまに浮かんだ。上位を占めていたのは玄侑宗久さんの作品群だった。いまなら第一位か第二位か、せいぜい第三位あたりにこの新刊『四雁川流景』がランクインするだろう。
 こんなにも人間が愛おしくなる小説を、無人島に持っていけるはずがない。
 この本には七つの短編が収録されている。主人公は四雁川という川の流れる静かな町で暮らす、様々な人たちだ。老人介護施設で働く二十代の女性。頑固一徹の父親を亡くした中年男性。大学生の孫娘と暮らす老人。事故死した娘の記憶に囚われながら生きる夫婦。友人の行方不明の謎を探ろうとする予備校生。性の芽生えと対峙して首をかしげる少年。
――そして最終話では、満を持してというべきか、著者がこれまで繰り返し主人公に選んできた「僧侶」が視点人物となる。彼らはただ同じ町に暮らしているというだけで、互いに関わり合いを持たない。だからこそ、読み手の心には無限の世界が広がり、そこに書かれた人物だけでなく、あの曲がり角の先にも、この窓明かりの向こうにも、たしかな人間の息遣いを感じることになる。各話は長いものではない。著者は必要最小限の枚数でそれぞれの人生の悲喜を描いている。しかし、印象派の画家が単純な線を慎重にキャンパスに落とし込んでいくように、いつのまにかそこには写真よりも生々しく奥行きのある世界が現出しているのだ。
 生きることは、こんなにも美しい。
 人が知っているつもりで忘れ、忘れているということさえとっくに忘れてしまっているそんな単純な事実に、『四雁川流景』は優しく気づかせてくれる。何かを教えるのではなく、気づかせてくれるのが玄侑さんの小説の特徴だと僕は思っているのだが、今回の作品ではその側面がより色濃く現れているのではないだろうか。秘密はきっと、文体にある。
『四雁川流景』で用いられている文体は、著者の他書では見られないものだ。
 たとえばある箇所では、
≪それはまるで、「犬が肉に食ついたとき、揺するじゃない、あんな感じ」。≫
 と、地の文に台詞を組み込むことで直接話法と間接話法の利点が同時に活かされている。そうかと思うと別のシーンでは、地の文がほとんど取り払われ、台詞だけでベージの大半が埋められていたりする。ゆったりとうねりながら淡々と流れる四雁川のように、その文体は読む者をときに優しく、ときに力強く、下流に向かって運ぶ。そして最後に行きつく場所は、川の終わりではなく、人間の生という、無限に広がる海なのだ。
 もちろん主人公の年代や性別、シーンによって文体は意図的に変えてもあるのだが、この作品集が三年間という長いスパンにわたって書かれたことも、文体のうねりを形成する要因となっているに違いない。いまだからこそ、この一冊は生まれた。もちろん、そうでない小説作品などありえないのだが、とりわけこの作品には「いま」が大きく影響しているのではないか。
『四雁川流景』というタイトルを最初に聞いたとき、僕はおや、と思った。川の名を、どこかで耳にした憶えがあったからだ。しばし首をひねった末に思いだしたのだが、二〇〇七年に刊行された『龍の棲む家』(文春文庫)の舞台が、やはりこの町だった。内容を読み進めてみると、第三話の『布袋葵』は、二〇〇五年「週刊新潮」で発表した掌編『つれづれ』を原型とした物語だった。
 川というものは、下流にいくほど太く、力強い流れとなる。玄侑さんの小説もまた、こうして支流や雨を取り込みながら、どんどん揺るぎない流れとなっていくのだろう。源流をたどってみれば、そこにあるのは無心に湧き出しつづける透明な水だ。そしてその水は作家玄侑宗久の、人間を見つめる濁りない目そのものにほかならない。
 物語は現実と地続きであるからこそ存在価値がある。もっと言えば、実人生における大切な何かを気づかせてくれる物語こそ、優れた作品なのだと僕は信じている。そんな優れた作品たちは、本というかたちを超えて、読み手にとって人生の師となってくれる。
 こんな名著を相手に、若輩者が長々と勝手な見解を綴ってしまった言い訳として、最後にこの本の中にある一文を引用させていいただいたこう。
≪師匠には問答無用、絶対服従だが、与えられたものの解釈だけは弟子の自由だ。≫
     
   「文學界」2010年10月号(文藝春秋)