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父親に認知症が始まったと兄から知らされた幹夫は、実家に戻って父親と暮らし始めた。
働き盛りの男が仕事を捨てて介護に専念しようと決意するには大きな葛藤があろうと思うが、小説はそういう心理的背景には立ち入らない。また、父親と息子という関係に想像される確執もない。その葛藤のなさが小説としては物足りないくらいだが、作者は別なことを書きたかったようだ。
幹夫は毎朝父親の散歩に付き添う。父親の散歩の足は公園に向くことが多い。公園には龍が絡み合う形の巨岩があり、その岩山の根元から満々と水を湧き出しつづける淵がある。かつて市役所の課長だった父親は、市長と対立して左遷されながらも、龍が淵と名づけられたこの自然を守りぬいた。公園に来るたび、父親は市役所の課長時代に戻ってしまう。
この公園で会った佳代子という女性に助けられながら、幹夫の介護の日々がつづく。佳代子は介護士だが、その仕事の中で、患者に自殺されるといったつらい経験もあったらしい。鬱病と認知症は周囲から同情されにくい病気だ、と佳代子はいう。周囲の者たちを翻弄しながら本人だけが楽をしている、そう感じられてしまうからだ。たしかに、その時々で子供時代や課長時代に回帰してしまった父親と付き合うために、幹夫と佳代子は、父親になったり母親になったり部下になったりと、いわば父親を中心とした即興芝居の役割演技を引き受けなければならない。その芝居を繰り返しながら、父親の心の「おもちゃ箱」をのぞきこむようにして父親への理解を深めていく。
この小説の興味深いところは、父親への忍耐強い介護を通じて、佳代子の心の傷が癒され、幹夫と佳代子の心も結ばれていくことだ。ここでは、認知症の父親は、たんに厄介な介護の対象ではなく、むしろ周囲の人間の功利的な意識を組み替え、彼の周囲に穏やかで心休まる新たな関係を形成していく中心である。その新たな関係を幹夫は「団欒」と呼んでいる。それは認知症と向き合うひとつの可能性かもしれない。
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