養老さんと玄侑さん、帯の言葉を借りれば、「仏教的な科学者」と「死後の世界を量子論から透徹する禅僧」との対話。お二人の名前に思わず「さん」をつけたが、べつだん面識があるわけではない。これが文章として書かれたものなら、たぶん「さん」付けはしなかったろう。対話だから、お二人の話し言葉に引かれて、こちらも、つい親しげに「さん」と書いてしまったのである。
このことは、最初の話題「観念と身体」にも関わってくる。話し言葉の持つ身体性が、読者の言葉遣いも変えたのだ。対話は、玄侑さんの「最近また、身体論が流行っていますね」という言葉から始まるが、本書のように、対談やインタビューなど、話し言葉の本が増えたのも、そういう流れに棹さしたものだ。養老さんに倣えば「ニーズがある」ということだ。書き言葉の観念性より、話し言葉の身体性にニーズが集まっているということだが、それは、日本が「近代化する段階」で「強烈に身体を排除してきた」、その「リバウンドが起こって」いるということになる。
これは養老さんの発言だが、そこから本書の主題の一つが浮かび上がる。近代化批判である。そしてそれは、もう一つの主題である、西洋対東洋という問題と絡んでくる。といえば単純化しすぎかもしれないが、大枠でいえば、そういうことになる。西洋のキリスト教に対する仏教や道教という対置にしても、文脈はそれだ。その意味では、本書も、一九三〇年代や六〇年代に主題化された議論を、新たな角度から展開しているといっていいだろう。新たな角度というのは、そこに脳科学や仏教の知見が踏まえられているということである。そして、ここが肝腎な点だか、お二人とも、どこかに絶望を踏まえた余裕がある。どういうことか?
近代化批判にしても、西洋の「直線」的な論理に対する批判にしても、それをいってみても、どうしようもないかもしれないという絶望があり、そのうえに立った余裕があるということだ。そこを読み間違え、簡単に結論を引き出すと、昔から繰り返されてきた近代批判、西洋批判に陥ってしまうだろう。実はそこに話し言葉のもつ気楽さ(身体性?)の落とし穴がある。書き言葉というのは常に選択と決断を迫られるから、論理の運びも結論も慎重にならざるを得ない。その点、対話は、相手の言葉にのって流されていく危うさがある。逆に、だからこそ対話は両者のコラボレーションによって、一人で書くときには見えなかった視界を開くこともあるのだが。
本書で、わたしが一番興味深く読んだのは、「世間と個人」の章である。それは養老さんが、「日本には『公私』はあったけど、『個』がなかった」というところから話が展開していくのだが、いろいろ考えさせられることがあった。たとえば、この言葉に促されて、わたしは、その「公私」は、いまじゃ「官私」になっちまって、「公」すらないんじゃないかと思ったりする。それも対話の効用だろうが、ここでの読みどころは、従来の議論のような、「個」がないから、なんとか確立すべきだとか、逆に「個」は日本の文化に馴染まないのだから、ないものねだりするな、といった単純な二者択一に行かずに、宗教問題の重要性とか、日本人の攻撃性が内に向かう、というように視野を拡大しながら公と私と個について考えさせるように展開していくところである。なかでも、玄侑さんが、「日本は女性の自殺率については世界一なんです」といっているのには、知らなかっただけにハッとさせられた。それも、「個」と社会に深く関わっている。
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