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俗世の常識とはまるで異なる世界がエッセー風につづれれる。とくに、食事の描写は興味深い。うどんを13玉一気食い、普段の粗食のうさを晴らすがごとく大食する日、ケンチン汁の由来。まさにド肝を抜く禅的生活。日常生活で忘れられがちな生物としての人の姿がここにある。 |
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本書は二十七歳の宗久青年が京都・天龍寺の禅道場に入門してから、父君の病を契機に実家の寺へ帰る<永暫(えいざん)>の日までの三年間を綴ったエッセイである。 入門試験は、道場の玄関で低頭したまま座り込む<庭詰め>が三日間、四畳半ほどの狭い部屋で坐禅を組みながら待たされる<旦過(たんが)詰め>をさらに二日。ようやく入門を許されても、睡眠は四時間ほど、お経と掃除に明け暮れる修行に約半数がひと月以内に逃げ出してしまう。坐禅中に警策(けいさく)を受ける背中には、いつしか赤や紫や緑色の模様が浮かんでくる……。 厳しい日々ではあるのだが、老師や雲水仲間たちの人間味に溢れたエピソードが本書にはいきいきと語られている。たとえば「金閣寺のカレー水」という一篇。信者さんのお宅で、道場では決して味わえないご馳走をいただく<点心(てんじん)>という機会がある。 <出されたものは全て平らげる、というのもそうだが、その上我々には全ての器、また鍋・釜で出された場合はそれもみな洗い、あまつさえその洗い汁も飲み干すという堅固な習慣がある。大抵の料理は洗い汁もそれほどまずくはないのだが、物がカレーとなれば話は別である。(中略)ようやく腹中に収まるのだが、再び勢いよく噴出してくるのは時間の問題だった> 「修行中の最大の楽しみなので、食べることについての話はどうしても多くなりました。人間の三大欲望は、睡眠欲、食欲、性欲といわれますが、この順に切実なようで、睡眠が満たされないと性欲までは手がまわらない、つまり道場では、性欲が起きないようコントロールされているんですね」 こうした暮らしのなか、若者が奇跡ともいうべき成長を見せることがしばしばある。玄侑さんは「はじめに」にこう記す。 <禅道場における常識があなたの常識を揺さぶり、奇跡を信じる気分になってくださったら幸いである。なぜなら、奇跡を信じると、奇跡が起る可能性はたぶん一気に高まるからである> 「道場では知識、すなわち頭を蔑(ないがし)ろにすることを学びました。頭なんて所詮『帽子掛け』にすぎません(笑)。知識だけでは何の役にも立たないと、身をもって感じましたね。奇跡を起こすのは体なんです。いま私は、草むしりはする、パソコンに向かう、筆で文字を書く、お経をよむと、体全部を使っていろいろなことができ、ありがたい限りですが、生活の幅を取り戻すというのは大事なことだと思います」 タイトルにある<ベラボー>という言葉にはどんな意図があるのだろうか。 「あの世界をひと括りにする言葉はなんだろうと考えたとき、<ベラボー>が浮かびました。これはスタンダードから外れていることを示すだけで、善悪の判断は保留している。道場では『こうしなさい』といわれるだけで、誰も説明してくれないから、ひたすら自分で考える。判断を保留して進むうちに、その行為の意味がずっと後にわかってくる。そうやって理屈なしで動くことこそが修行です。近ごろはインフォームド・コンセントなるものがあまりに多すぎる気がするのですが、いまこそ<不思議>というものの価値を積極的に認めるべきだと思っています。この世の中、不思議だからこそ面白いんじゃないでしょうか」 |
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作家で僧侶である著者が、かつて京都の禅道場で修業していた頃の出来事を綴ったエッセイ集。道場前に座り込んでから3日目でようやく許されるという入門から、短い睡眠時間、季節にかかわらず裸足、日ごろは質素な食事ながら信者の前では大量の食事を吐いてでもすべて平らげねばならないなど、非常識が強要される日々が続く。しかし<それによって我々は、その意義や効果については自分で考えてきた。しかもそれは自分の中に、その意義や効果を信じる力をも培った>という。禅寺での知られざる生活をユーモラスに描きながら、一般社会の”常識”について再考させてくれる。(馬) |
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芥川賞作家が初めて明かす、若き修行僧時代のベラボーに面白い日々座禅や呼吸法、野菜食の効用は? 相手を三年間無視し続けることが本当のあいさつ? 禅の“常識”があなたの常識を揺さ振ります。 |
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