味読・愛読・ 文學界図書館
「人生における“祝祭”とはなにか」



山登 敬之氏 (精神科医)

 ちょっと昔の話になるが、私の診察室に一人の僧侶が訪れたことがあった。私自身まだ三十代の頃で、その彼もたしか同じぐらいの年齢だったと思う。
 青春の彷徨、人生の苦悩など、自分の体験談をひとしきりしたのちに、ところでセンセイとばかりに身を乗り出して言うには、なんでも、最近いいクスリがあるみたいじゃないですか、ぜひ試してみたいんだけど……。どうやら彼は、私が雑誌に書いた抗うつ剤の記事に惹かれて来院したようなのだった。
 なんだい、クスリが目当てかよ。修行が足りないんじゃないのか、坊さん。解脱しようぜ、解脱! などとツッコミを入れたくなる気持ちをぐっとこらえて、お気の毒ですがその薬はまだ日本では認可されていないのでと説明してお引き取りいただいた。
 あのお坊さんは病気だったのか、それともただのドラッグマニアだったのか。いまもって診断に自信がない。彼に受診のきっかけを与えた雑誌は、医療情報誌などではなくサブカルチャー系のそれであったから、どちらかというとマニアの方か。
 ともあれ、当時の私には、僧侶と抗うつ剤という組み合わせがめずらしく思えたのだ。冷静に考えれば、べつに聖職者だからといって精神科の薬を飲んじゃいけないって法はない。ちょっとガッカリ……という気もしないではないが、それは職業に対する偏見というものだろう。
 こんなことを思い出したのも、この小説が、四十歳の誕生日を前にした一人の男が精神安定剤を飲むシーンで始まっていたからだ。おまけにその主人公が僧侶。薬を飲んだ後の心身の変化、薬をめぐるアンビバレントな思い、周囲の人たちの気遣いなど、冒頭からとにかくリアルな描写が続く。精神科医でなくとも思わず引き込まれてしまうところだ。
 これだけリアルに書けるのはやっぱり病気の経験者なのか。たとえば「脳がパブリックになっていく」などという表現は、なかなか出てくるものではない。そんなふうに、作者に対する病跡学的な興味も湧いてきてしまうのだが、そういう精神科医のスケべ心はここでは措いておこう。
 考えようによっては、この作品の成功は、主人公の淨念に薬を飲ませたところにあると言えなくもない。精神安定剤という小道具が、読者に脳と病気の存在を意識させるために、淨念の心理描写にねじれがかかって面白いものになっている。心と脳、思い出と記憶、葛藤と病気……、淨念の苦悩に根拠を与えてくれるものは何なのか。
 ところで、淨念は自分の病気を分裂病まじりの躁うつ病と理解しているようである。分裂病と躁うつ病は精神科でいう二大精神病だから、この人は人間の精神のあり方の極をすべて経験していることになる。実に欲ばりで贅沢な男だ。
 精神病理学者の木村敏は、著書『時間と自己』の中で、自己の存在様式を時間との関連において考察し、われわれが生きる時間形態を三つのスタイルに特徴づけた。すなわち、アンテ・フェストゥム(前夜祭的)、ポスト・フェストゥム(あとのまつり)、イントラ・フェストゥム(祭のさなか)の三様式である。そして、これらはそれぞれ分裂病、うつ病、躁病の持つ時間構造に対応している。
 ここでの「フェストゥム=祭」という言葉の意味するところは「一大事的な出来事」といったニュアンスかと思うが、淨念はこの物語の中で文字通り「祭」に向かって進んでいく。淨念にとっての祭とは、ライヴ・コンサートでロックを歌うこと。彼は僧侶になるずっと前からミュージシャンだったのだ。といっても、もちろん、音楽を職業にしていたわけでない。子どもの頃から、彼の心にいつもロックが鳴っていたということだ。
 妻や住職にコンサートを開くと告げた当初は軽い躁状態にあった淨念だったが、その日が近づくにつれて次第にうつに傾いていく。さらに分裂病の症状もかぶったようにも見える。このあたり、作者は主人公から周囲の人々に視点をずらし、かれらの目に映る淨念の姿を描くようにしている。もはや、読者は淨念の発言や行動を通してしか、彼の内面を推し量ることはできない。
 おそらく淨念は、これから起こるもろもろの事態に対し「前夜祭」的な予兆を感じて身震いすると同時に、ともすれば「あとのまつり」的にとりかえしのつかない思いに支配されそうになる自分とも戦っている。コンサートの三日前になると、開いた三面鏡の前に裸で結跏趺坐し「ナム、アブラクサス……」と唱え出す。
 そして迎えたライヴ当日、会場となったカラオケ・スナックは客で一杯。音のうねりに身をまかせ歌い出した淨念は、この上ない喜びに全身が包まれていくのを感じる。アブラクサスの啓示が聞こえてくる。「おまえはそのままで正しい……」
 このとき淨念は、まさに「祭のさなか」を生きているのだが、それは彼の病気によって生み出された時間ではなかった。淨念はみずからに狂気を呼び込み、祝祭を演出することに成功したのだ。木村敏が前掲書の中の引用したルードヴィヒ・ビンスヴァンガーの言葉によれば、祝祭とは「人生の諸問題から完全に離脱した無反省的で純粋な現存在の歓喜」のことであり、淨念の祝祭もまたこれに同義である。
 結局のところ、精神医学より宗教、宗教より芸術に軍配があがったということだろうか。いや、まさか、そんな読み方をする者はいないだろう。コンサートが終われば、淨念は日常に戻らねばならないのだし、そうしたら薬だってまた飲むことになるかもしれない。病気を抱え、業を抱え、つかの間の祝祭に真理を見ようとする淨念の生のあがきに、私たちはエールを送ろうではないか。


「文學界」 2002年 新年特別号