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この本を開いたときに目を射るのは、不忍池の象徴である蓮の写真である。写真家・坂本真典が一万七〇〇〇枚も撮りためたという蓮の写真は、二〇〇枚が選ばれ作家の玄侑宗久のもとに届けられた。玄侑は写真を眺め、何度か不忍池にも足を運んで中篇「祝福」を書いた。掲載された写真は二〇〇枚の中からさらに選びぬかれたものである。
蓮は不思議な植物である。私も不忍池から近いところに住んでいるため、足を向けることがある。四季折々の蓮の姿は、ときには気高く、ときには佗びて、見る者を飽きさせない。花の終わった晩夏に、知人を案内したことがある。丈高く池を覆いつくす蓮の生命力に、その人は「おおっ」と声を上げたまま黙ってしまったものだった。かと思えば、冬、すべてが枯れたあとに残る花床(実の生る部分)も、仏がおわすにふさわしい存在感がある。そうしたさまざまな表情を鮮烈に写しとった写真にまず心を奪われる。
それからゆっくりと小説を読む。不忍池のほとりで中国人女性・怜華と出会った主人公は、蓮の花に導かれるように、彼女と恋に落ちる。ここでは蓮の花はただの象徴としてではなく、最近玄侑が心を傾けているサイエンスと人との関係を示唆するものともなっている。
植物の不思議な特性、たとえばハイドンやシューベルトの音楽をラジオで流すと、そちらに向かって伸びていき、やがて巻きつくカボチャの蔓。怒鳴りつけられると色あせてしまう菊。恋に落ちてほどなく、病に倒れて意識不明の”さなぎ”と化してしまった怜華は、四日だけ咲いては閉じてしまうという蓮の花のようだ。
主人公は意識不明のまま寝たきりになった怜華と結婚する。誰からも理解されない結婚だったが、そこには不思議な安らぎがあった。怜華は美しいまま少しずつ衰えていくのだけれど、柔らかな音楽を聴かせたとき、夫が思念を送ったとき、瞬時に彼女はそれを受けとめ、まぶたの下の眼球を動かす。言葉を持たない、しかし確実に人の思いを受けとめる美しい花、怜華。そこに安寧を見出す主人公はこう記す。
「ここに綴るのは、私を祝福しつづけ、深い自然を教え、今も私と共にあるひとりの女、怜華の物語だ」
『祝福』には今風の風俗も、暴力もない。エロティックな描写はあるが、それも原初の男女を荘厳するかのような透明感がある。写真家の坂本は読後、玄侑に送った手紙に「理由はわかりませんが、涙がとまりません」と書いてきたというが、実は私も、思いがけなく涙をこぼしたのである。 |
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