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玄侑宗久という作家は『禅的生活』に代表されるような説教や伝道の方面での活躍が最近やたら目立つが、本来は実力のある小説家である。そのことを証明したのは前作の『アミターバ』だった。死にゆく者が現世を離れていく心のプロセスを事細かに語ったその小説は、語りえぬ他者の声を想像力で語らしめるという小説のありうべき力を最大限に発揮していた。その仕事を受け継ぐ本書は、今度は死者に取り残された生者たちが魂の平安を回復しようとする物語である。若い女性が突然自ら命を断った。ショックから立ち直れない母親や弟、彼女をストーキングしていた男、親しくしていた男、彼らはそれぞれの喪失感とともに彼女の死の謎と、自分の魂の空漠を病み始める。いってみれば彼らはみんな本来の魂をどこかに落として見失ったのだ。自分のあるべきはずの魂が見つからない、いま日常を生きている自分が虚ろな器であるよな思い。それはじつは現代人に多かれ少なかれ共通した不安である。ある宗派の仏教という立場にこだわらず、著者はその「魂」を扱う領域の知恵や言葉を収集している。それは近代以来の文学が引き受けなくなって久しい役割だ。その懐の広いこと。ときには薀蓄が小説にとって邪魔に感じられないでもないが、それがたんなる衒学趣味ではなく誠実な探究心の表れだと分かるので、なるほどと説得されてしまう。仏道に入って作家である人は他にもいるが、彼ほど小説家であることと僧侶であることを見事に融合させている存在は他にない。
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