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人はなぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか。正しい答えなどないと分かっていても、つい尋ねたくなるこの問いに、玄侑宗久さん(48)が取り組み続けている。昨年は、老いた女性が遭遇する死後の世界を大胆に想像した『アミタ−バ』を刊行し、今年は自殺した若い女性の遺族や友人、ストーカー男の視点で生死のあわいを描く『リーラ 神の庭の遊戯』を書き下ろした。この作品に、現役の僧侶作家がこめた思いを聞く。 |
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「人間を量子論的にみれば、素粒子の集合です。素粒子は寿命が短く、一秒も生きているものではないのに、その集まりが人間として、ある種の連続性を持ち得ている。ならば、死によっても断ち切られない何かがあるのではないでしょうか」
学校で物理の講義が始まったのではない。ここは福島県三春町の福聚寺。この古刹に生まれ育ち、今は副住職を務める玄侑さんに「人は死後にも、生前とのつながりが何かあるのだろうか」と尋ねた答えだ。
人類が、仏教をはじめ宗教の「教え」の形で蓄積してきた知恵を、宗教語によらないで解き明かしたいと願う玄侑さん。そのために宗教はもとより物理学や生理学、心理学などに幅広い関心と知識を持つ。小説のほか、仏教の教えを分かりやすく説く著作も多い。
『アミターバ』では、人が死ぬ時に失われる重さが膨大なエネルギーに変わることを、物理学の法則にもとづいて提示。仏教でいうアミターバ(無量の光)を、そうしたエネルギーが集積した世界とみて、そこに歩み入る死者を描いた。単なる仏典の新解釈にとどまらず、敬愛した義母の最期の日々を踏まえ、魂の安らぎを願う一編となった。
だが「生前の人格や意識が、死後もそのまま連続しているとは思いません」といい、新作『リーラ』では、自殺した専門学校生の飛鳥を中心に据えたが、彼女自身は登場させていない。家族や友人、ストーカー行為を続けていた専門学校の教員・江島など六人の回想や体験を通じ、飛鳥の死が少しずつ語られていく。
彼らの視点による全十六章を読み手はらせん階段のようにたどり、「死とか何か」「そして生とは何か」という思いへ導かれる構造になっている。そこでは、死や死後の世界は、ひとつの像を結ばない。すべては読者に考える余地を残した描写となっている。
その執筆を「六人の人格に乗り移らなければならず、苦労した」と振り返る中で、ひときわ難しかったのが江島の描き方という。
僧侶作家が犯罪者の人物像を造形するのに困った、というだけの話ではない。この卑劣なストーカー男は、事情を知った飛鳥の友人に殴られ大けがをする。彼は病床で涙を流して改心し、「すべてのできごとはみな『神の庭』のできごとなのだ」と再生への手がかりを得る。厳しい“勧善懲悪”を望んだ読者には、違和感が残るかもしれない。
「江島が救われることへの理不尽さは、私も感じています。最初の原稿では、江島はこらしめられ、メタメタにやられるままでした。でも、そこで終わるのを許さない何物かがあったのです。そこに江島を運んでいったのは、私の力ではない。それは単なる善悪を超えた、仏教的な『縁起』なのだと思います」
「縁起」とは、仏教の根本思想だ。すべてのものごとや現象には定まった実体がなく、さまざまな原因や条件の関係性の上に成り立つ、とする考え。「原因があって結果がある」とみる近代科学の“因果律”を含んで超えるものだ。
「これこそがこの作品の隠しテーマだと思っています。因果律とはつまりロジック(論理)だと思うのですが、ロジックが世界をすくい取れると信じるのは危険だしおかしい。現実は、ロジックからはみ出ることばかりですから」
そうした思いを別の角度から支えるのが、作品の題名になった「リーラ」。インド哲学に裏打ちされた「ヨーガ」で用いられる言葉だ。作品の大詰め、作者が登場人物に語らせた一言に、この小説の核がある。
《ヨーガではね、この宇宙はどうしてできたかって訊かれたら『リ−ラ』って答えるの。神さまのリーラ。気晴らしとか楽しみとか、たいていは『遊戯』って訳される。(中略)私たちが生きてるのもリーラ、死ぬのもリーラ》
人の生死すらもまた神の遊戯。小説『リーラ』は私たちにそう語りかける。そこでは、こざかしい人間の論理は通用しない。「これは小説でしか書けなかったと思います。この物語を読者が一つの体験として受け取ってくれたらと願っています」。今は「人は死んだらどうなるのか」を、小説ではなく、論理的な文章で伝える新書を執筆中だ。
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東京新聞 2004年9月17日夕刊/中日新聞 2004年9月17日 |
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