私はあの世も霊魂も幽霊も信じない。あるとしたら、銃やミサイルで殺されたり、ビルの屋上から突き落とされたり、家族もろとも手錠でつながれて海へ捨てられたりした罪もない人たちの無念の霊は、どうなるのだろう。その下手人たちが残らず亡霊に祟り殺されでもしない限り、信じられるものではない。しかし、そう強弁するのは逆に、あってほしいという願望のようなものがあるからなのだろう。
玄侑宗久の『アミターバ』(新潮社)に感動したのも、そのもう一人の自分に違いない。
本書は著者が義母を癌で亡くした体験をもとに、人の死を真正面から追体験してみせた異色の小説である。八十歳を超えた女性が肝臓の胆管部に進行癌を発見される。手術をしても助かる見込みがまずないといわれる部位である。寺に嫁いだ娘のもとに身を寄せている彼女は、婿の僧と死について問答を交わしながら、少しずつ自分の死を受け入れていく。やがて意識から時間の束縛が失われていく。かつて見た景色や体験が、現在と地続きで鮮やかに浮かんでくる。悲しみではなく、まばゆい光とともに慰安に包まれる。
読んでいると、自分もいつか迎えるそのときに思い浮かべる風景が見えてくる気がした。初めて自転車に乗ったときの息子のうれしそうな顔。散歩したときの路傍の草花を見つめた幼い娘の眼差し。若いころの父母の顔と声。涙が出てしかたなかった。
私の感銘にはもう一つ個人的な要素が交じっていた。まだ四十代で同じ癌で亡くなった私の親しい同僚がいたのだ。理不尽といってもいい彼の若い死をしばしば私は思わずにおれないが、本書を読んで彼の死もこのように安らかであってくれたらと思えた。
ある場所で本書の書評を頼まれたとき、その友人のことも一行だけ書いた。すると程なくして、玄侑氏から手紙が届いたのだ。彼はその友人のことに触れ、知人から教わった「病跡学」という学問のことを述べていた。どんな性格の人がどんな病気にかかるかを調べる学問らしい。それによれば、胆管部の癌にかかる人は、他人に慕われる素晴らしい性格の人物なのだそうだ。あなたの友人もきっと素晴らしい人だったでしょう、と玄侑氏は書いていた。
その手紙が届いたのが、友人の命日だったことにあとから気付いた。もちろんこれは偶然である。しかし、遠いところから差し伸べられた縁を感じさせる偶然である。
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