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迷い多き私にとって、禅は気になるものである。不動心をうち立てるための、ヒントがありそうで。
書店でタイトルにひかれ、まえがきをめくって「へえっ」となった。ご存じ、著者は、作家にして禅僧だが、まえがきによると、禅僧というのは「楽で元気」な人たちとか。禁欲的で、きゅうくつそうなイメージとは、ずいぶん違うぞ。
さまざまな禅語を通じて、禅の世界観を味わい、日常生活に具体的な変化を生み出そうというのが、この本に狙いという。
もっとも、著者が案内できるのは、悟りそのものではなく、周辺まで。坐禅で脚を痛めることもなく悟ろうなんて、ムシのいいことは誰も思っちゃいないだろうが、と。わかりました。そのつもりで読みます。
いきなりだけれど、禅ではいわゆる「理屈」とか「価値判断」を最大の妄想とするそうだ。これも私には「へえーっ」であった。私など、そのふたつでもって、前半生をかろうじて乗り切ってきたようなものだから。
この本によると、左脳の言語・思考機能こそが、迷いの根源らしい。「考える葦」としてのヒトの特性に、誇りと信頼を置いてきた私は、ぐらぐらと揺れてしまうのだった。
以上のような、禅の基本的立場を示した上で、妄想をみきわめ、悟りの周辺に向かうわけだが、その手続きに、著者の博識ぶりが示される。中国哲学、インド哲学といった東洋思想はむろんのこと、ギリシャ哲学、心理学、現象学なんぞも引いてくる。
けれどそれは、著者にはじまったことではない。禅語というのは、出典がとんでもなく多様だそうだ。ジャンルを問わず、いろんなところから無節操に盗用してしまうのが、禅の得意技らしい。その意味で、著者は正統なのである。
神経生物学的アプローチが、私には、特に面白かった。煩悩を、脳機能として説明する。例を挙げれば、因果特定機能=ご褒美を期待しちゃう。全体視機能=イッショクタに見ちゃう、印象や先入観で思い込む。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い? うーん、身に覚えがありますね。
こうなると、ヒト脳を持ってしまったのが運のつき、みたいな気分にもなる。でも、著者がわざわざ神経生物学まで引っぱり出してきて言わんとするのは、そうじゃない。
脳の機能を全開にすれば、煩悩と呼ばれる諸機能が、働かない状態にもっていける。自己を超越する機能も、ヒト脳にはちゃんと備わっている。
詳しい説明は本に譲るが、研究によれば、雑念をはらう努力が極点に達すると、脳の自己意識を支える部分への、情報入力が遮断される。その状態が悟り。ヒューマン・ブレインを最大限に使うことで、ヒューマン・ブレイン以前の世界を目指すのが、禅という。
うわーっ、理屈を否定するくせ、むちゃくちゃ理屈っぽいじゃない、と感じる人もいるでしょう。そう、この本は、もともと逆説的な試みなのだ。
そもそも、禅は不立文字=悟りの心は言葉では表せないとしながらも、それを表現する語が、たやら多い。その矛盾に対し、読者から当然来るだろうツッコミを、先回りして受けつつ(そのあたりの文章の運びも、柔軟でユーモラス)、人間が「言葉の届かない世界にもなんとか言葉で近づこうとする生き物だという証左ではないだろうか」と著者は説く。
私たちにはどうしたって、論理的にものを考える癖がある。近代西洋思想の影響に、どっぷりつかった現代人は、特にだろう。
悟りそのものは、あくまでも体験するしかないけれど、「利用できる研究成果は利用し、不立文字の部分は減らしていきたいとは思う」。
私たちの思考の習慣に沿いながら、その限界を超えさせようとする、チャレンジングな本である。
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