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「ああなれば、こうなる」と思い悩む前に、まずは意識の壁をとり払って身体にもどれという解剖学者。はからいを捨て、日常の所作一つひとつに心身の融和を体感せよという禅僧。二人の「地」に根ざしつつ螺旋する「知」の共振は、上空飛行する観念を徹底して叩きだし、自然という地べたに引きもどす。本書に盛られた対話は、ゆるやかで、精緻。個別によりそって自在。まるでバッハの「無伴奏チェロ組曲」に聴きいるようで、まことに爽快だ。
二人が切り結ぶ一点、それは、いかにして現代社会が抱えてしまった苦悩を解放するかにあるようだ。あいまいな私、閉塞する自我、あげくの果ての無意味な殺傷に自殺……。二人の「置き去りにされた身体」論は、その病巣を次のように剔抉する。
身体を排除した明治以降の近代化のツケが今回ってきている。身体(自然)を基本としたシステムとしての文化がくずれてしまい、結果、とりわけ若者たちは、外部につながる通路が見えず、観念が増幅して自殺やリストカットにおよんでしまう、と養老氏。こうした脳化社会を切開する氏の根本治癒法は、「左脳」に落ちないで外にでていくこと、「すべては脳にある」という意識中心主義を無化することにある。いわく、「どん底に落ちたら、穴を掘れ」、「黙ってやれ」、「地雷は踏むまでない」。
解剖学者のこうした自然をそのまま受け入れる仏教的・禅的な発言の呼応して禅僧は、「一切唯心造」(一切はただ心が造るもの)といい、身体に心は宿るとして「正座」の効用を説いている。身体の形に則った所作の一つである正座は、下腹部の筋肉を鍛え、発想を変える。欧米人の胸式呼吸は理知中心になりがちだが「腹式は、副交感神経が優位になり、慈悲が芽生える」。
「修行」についても二人は、「やれば、こんな利益がある」といった”GDP主義”を排し、ひたすら専心することによって意識中心の都市の囲い込みに抗するタフでしなやかな身体を鍛錬することが要という。解剖や虫捕りであれ坐禅であれ、修行とは「結局自分がやったことしか残らない」(養老)もので、「変わらない私」幻想を砕く「観念つぶし」(玄侑)の第一歩なのだ。
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