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「死んだらどうなるの?」か明快に答えられる人はいない。誰でも必ず死ぬけれども、死んだら、どうなってたか、報告できないしくみなのだ。
誰もが必ず体験できるのにそれがどんな体験か、一切明らかになっていないこと、こんな例はほかに見当たらない。
死ぬのがコワいのは、この「誰にもわからない」からじゃないのか、と私は思っているのだが、誰もがコワいのだから、その理由はそれぞれに考えぬかれていて、それぞれが、それぞれに一言でいう言い方を持っている。
「死んだらどうなるの?」という疑問は、昔からナゾの中のナゾ、ナゾの王だった。
コドモの頃、この疑問にとりつかれて、夜になると泣いていたという人は多い。コワくて、しかたなかったという人も多い。
宗教も哲学も、そしてあらゆる学問は、この究極のナゾから始まっているのだと私は思っている。
著者・玄侑宗久氏は、小学校二年くらいのとき、毎晩のように「自分が死ぬこと」を想って泣いていたそうだ。
家はお寺だったけれども、きっと昔のように、つまり、「死んだら、あの世へ行く」、あの世ではエンマ様がいて、生きているうちに、悪いことをした者は地獄に、行ないの正しかった善人は、極楽にふりわけられると、単純に教えられなかったのだろう。
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イラスト/南伸坊 |
昔の人は、そのように単純に教えられ、単純にそう信じることで安定していた。
単純でなかったのはインテリの家庭だったろう。そうして近代は、とりわけ戦後は、ほとんどの家庭が、あたかもインテリ家庭のようになって「あの世」や「エンマ様」を持ち出す根拠を失ってしまったのである。
本書は、まさに、その典型的に現代人の、この本を書くのにうってつけの人によって書かれた、現代人にうってつけの本である。
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