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自殺とは何かを問い、残された人々の再生を描いた書き下ろし長編小説。23歳の女性・飛鳥の自殺から3年、整体師の弟、死を受け入れられない母親、ストーカーだった男ら6人の視点から彼女がどう生きたかが語られる。
「6人の目線をらせん状に重ねることで初めて自殺が描けると考えました。いくつもの目線がつながるのは、神の視線に近づくことだと思う。神の視線そのものにはならないが、らせんの真ん中に残った空洞が『神の庭』。人間の論理が通じる世界ではない」
弟は、なぜ姉が自殺したのか疑問を持つ。ストーカーにつきまとわれたらしいがそれだけではなさそうだ。自殺した日は歯医者の予約を入れていたのに―。
「論理的に自殺を究明するのは限界がある。先生にしかられ、帰宅したら両親がけんかしていて、窓を開けると誰かが殴られる光景を目にしてしまい……。理屈ではなく、こんな共時的出来事が続いた結果、自殺を思い詰めることもある。結婚を決めることだってあるかもしれない。描きたかったのは私たちの生活にあふれているこの共時性」
共時性は、飛鳥の死だけでなく、弟も母親もストーカー男も、彼女の死を受け入れようとする中で起きてくる。「波のように押し寄せる共時的出来事に、もう少し身をゆだねてもいいのでは、と思う」
共時性という言葉を作中の登場人物に「リーラ」と表現させた。<ヨーガではね、この宇宙がどうしてできたかって訊かれたら『リーラ』って答えるの。神さまのリーラ。(中略)たいていは『遊戯』って訳されるんだけど>。玄侑さんはこうも言う。「あらがって立ち尽くそうとするから波にさらわれる。ご縁に従い波乗りをすればいい」
共時性といい、リーラというのは、仏教でいう「縁起」のことなのだ。物事はすべて関係性の中にある。
臨済宗の僧侶として、子供に自殺された人たちの姿に接してきた。「ここにはその方たちに言ってあげたいことが凝縮されています」。どこか読む者の肩の荷を下ろさせてくれる小説だ。
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