健康プラスα「私の本棚」
毎日をもっと楽に生きる抜け道を指南



松田博市

 禅宗にはどこか宗教らしくないところがあるような気がする。仏教自体がキリスト教のような絶対的存在の人格神を奉じていないせいか、人に神の子としてのあるべきモデルを押し付けるようなところがない。

 従わなければならない厳しい戒律や教義も前面にでてこないから、われら凡夫が罪を犯してもきびしく罰せられる気配がないし、禅宗の偉い坊さん自身が仏教の禁戒を乱してけろりとしている。

 それに他の宗教のように、死後の世界を担保に現世の生き方に禁欲や苦行の枠をはめることもない。禅にはなにか、神とか宗教とかにつきものの恐れや義務感を感じさせないところがある。

 絶対的な存在の神の前では、人は卑小な自己を少しでもそこに近づけようと、健気な努力を試みる。しかし、もとより全き善である神に届くはずはなく、その乖離(かいり)を埋めるための自己改革が信仰の修行になる。そこでは神はあくまでも手の届かない遠い存在だが、禅では違う。人は迷いを抜けて悟りをひらけば仏に並び、一緒に歩けるとする。

 だが迷い、悩み、苦しんで生きているわれら凡夫には、どうやって迷いをふりきればいいのかが問題だ。人の迷いや悩みは今、ここにある自己を過去・未来とのつながりや他人と比較したりすることで生まれる。

 例えば人と諍いをしたら、それはしこりとして現在に残り、われわれを悩ます。しかし禅では、あらゆる瞬間は独立して存在すると考える。このため、過去のわだかまりなんか忘れてしまえ、未来もどうなるかわからない、だから将来の果報を期待しないで今という時間からすべて貰ってしまえ、という。
 今という一瞬一瞬を完全に肯定することで、何度でも「今」に生まれ変わることができるではないか。そうやって自分を束縛するあらゆることから精神を開放してやるのが、迷いからの抜け道なのだ。

 禅は、「精神の全き自由を求める宗教」だという。しかし、われわれが生きる実生活では時間は連続して流れており、社会的生物である人間にはいろいろな束縛がつきまとっている。その中でどうすれば自由な精神で生きることができるのか、禅僧で芥川賞作家の著者が先達の言葉をシャワーのように浴びせながら、その道筋を示す。

 そこで引き合いにだされる高僧たちの言葉や問答は自由奔放、融通無碍で面白い。禅では、「過去未来にとらわれず瞬間に生きる」というが、われわれが社会的生物として生活するにはある程度の時間的一貫性がいるし、生きて何をするのかというベクトルを定める必要がある。その矛盾を、禅は「志を立てる」という方便を使って、いとも簡単に乗り越える。

 この「方便」といういわば思考の補助線を縦横に駆使することで、がんじがらめの論理の糸から抜け出し、一見無節操とさえ思える自由な発想を展開させるのが、禅の得意技のようだ。そして早速、その志でさえ、あまり立派だと窮屈だからほどほどがいい、と身をかわし、さりげなく万事風流にいこうと呼びかける。

 禅の風流とは足ることを知り、生きていく中での不足や不慣れなどを楽しむことだというのだが、やがてそれも「風流ならざるところもまた風流」と煙にまいてしまう。

 あとがきで著者は、この本は迷いからの開放、ありのままの世界を与えられた自己の役割に徹しながら生きる、など禅的生活を探しながら風流にたどりつくまでの旅の記録としている。しかし読み終わってみると、方便を駆使し、自由な精神を生きるこんな生き方があることに、なんだか心安らぐ思いを感じる。


「nikkeibp.jp健康」 2004年12月2日号