禅僧が科学を援用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。
はたして、本気だろうか。私はまずそれを疑った。本気と冗談というのは裏表だぞ。次にそう考えた。きっと冗談に決まっている。これは諧謔(かいぎゃく)だ。だってこの人は禅僧なんだから。
「この、くそかきべらめ!」どやしつけたくなるのをこらえつつ、ようよう私は読み終えた。読者は本書を本気で読んではいけない。これは禅僧である著者が、現代科学の愚鈍を笑いつつ、読者をだまくらかしてやろうと諧謔で語った本である。言われていることすべて、ひっくり返して読むがよろしい、それが著者の本意であるに違いない。
第一に、タイトルである。「死んだらどうなるの?」こんな問いを、禅が発するわけがないのである。死なんてものは、今ここに在ることにおいて、どこにも存在していないからである。死が存在するなんてのは、ないものをあると思い込んでいる愚かな錯覚である。死が存在しないのに、なんで死後の存在が問題になるはずがあるだろう。死を信じている禅なんて、聞いたことがないのである。
そして、この、「ある」と「ない」について著者は、「科学では証明できない」と言っているが、完全な諧謔だから、真に受けないように。ないなんてことが、あるわけがない。普通に考えれば、証明なんぞ要らないのである。
「意識は脳が生み出す」とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければいけない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、つまり妄想であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。
「死にはせぬどこにも行かぬ此処に居る尋ねはするな物は言わぬぞ」
一休によるこの歌を、著者は、遺族の願いに答える人情だと解釈しているが、うがちすぎであろう。これは単純に、こういう歌なのである。すなわち、「お前は自分が死ぬと思っているのか。馬鹿野郎だな。説明しろったって、説明なんぞしてやらんわい」
野暮な説明をしてしまった。おそらく著者には、禅僧としての使命感といったものがあったものだろう。しかし、私には、禅僧の使命感とは、考えるほどに、何なのだかわからない。「溺れる者は藁なぞつかむな」。歴代の禅師たちは、そのように突き放してきたのではなかったか。
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