昔の人は人生観は一個でよかった。
一個で充分まかなえた。
だいたい十七、八歳ごろから二十歳にかけて人生観を完成させ、そのあとはその一個でずうっとやっていけた。
途中でその人生観の中身を手直ししたりすると、「変節漢」などと言われて世間から非難された。
そのころの一生というのは、
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり」だった。
つまり人生五十年。
ということは、二十歳で完成させた人生観を、そのあと三十年間使用すればよかった。
耐用年数三十年の人生観を作ればよかった。
四十年もの、五十年ものは必要なかった。
そのころは時代の変化する速度もきわめてゆっくりであったから、どんな粗暴な人生観でも三十年は保った。
いまはちがう。
まず時代の変化する速度がまるでちがう。
そのうえ、平均寿命が五十歳ではなく八十歳になった。
人生わずか五十年の時代プラス三十年。
三十年ものがもう一個必要になったのである。
時代の変化するスピードを勘案すれば、たんにもう一個というわけにはいかないことはいうまでもない。
最低でも三個、いや五個、六個と必要になってくるかもしれない。
こうなってくると乾電池と同じだ。
どんどん使い捨て。
いまや変節もヘチマもない、人生観の使い捨て時代がやってきたのだ。
電池の替え時と同じく、人生観の変え時の検討も大切になってくる。
「この電池まだ使えるから」
などといって惜しがっていると、時代に取り残されることになる。
まだ使える電池でも、場合によっては取り替えなければならないこともあるのだ。
まったく大変な時代になったものだ。
玄侑さんのこの本『まわりみち極楽論』は「人生後半」「第二の人生」について考えてみようということのようだが、人生後半、第二の人生はすなわち、電池の入れ替え時にあたる。
ちょうど三個目あたりかな。しかもです。
「替え時かな。いや、いまのがまだ使えるからもうちょっと先かな」
と迷う迷い時でもあるのです。
いまこうして振り返ってみると、
「よくもまあ、ここまで何とかやってきたものだ」
と思うことしきりのしきり時。
ぼくの場合でいうと、小学生の低学年のときの履きものは藁で編んだ草履でした。
筆記具は石盤でした。石盤というのは、板状の平らな黒い石に、蝋石(白墨と思ってください)で文字を書き、書いたら布などで消してまた使うというものです。
そういう“石器時代”から生きてきて、そうしていまやパソコンです。
石盤からパソコンへ。
そういう時代を、ぼくは何とか生きのびてきました。
何とかパソコンをあやつり、何とか多機能ケータイをポチポチし、アップアップしながら時代に付いてきたがここへきて息切れが激しい。
世間一般の価値判断と、自分の判断とのズレも大きくなっているかもしれない。
したがって自分の行動に自信がもてない。
まさにそういうとき、この本をおそるおそる拡げてみてください。
おそるおそるのほうがいいです。
おそるおそるということは半信半疑ということかい、と訊かれれば、そういう意味も含まれています、と答えておきます。
人間の悩みなんて人様々で、もう本当に解決法なんてないんですね。どう考えてもない。
どう考えてもこの問題は行き詰まりだ。
打開の余地はない。あるはずがない。
と思ったとき、この本をおそるおそる拡げてみてください。
そうするとですね、いいですか、本当はないんですよ。ないんだけれども読んでいるうちに、
「え? あ―、そうか―、ふ―ん、へぇ―」
と思えてくる。
「なるほど、そういう手があったのか」
という手を玄侑さんは示しているわけではない。
わけではないのに、妙に心が落ち着いてくる。
そのあたりの心のありようは不思議というほかはないという不思議な本です。
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