一人の若い女性の自殺をめぐる物語。著者はこれまで六冊の小説(デビュー作で芥川賞候補になった『水の舳先』、芥川賞受賞作『中陰の花』、受賞以後の『アブラクサスの祭』『化蝶散華』『御開帳綺譚』『アミターバ』)で、霊魂と救済の問題を扱ってきた現役の僧侶。今回の書き下ろし長編も、死者の魂ということが主題になる。
 いままでの主要な玄侑作品と違うところは、主人公が僧侶でなく世俗の人であること、各章に人の名がつけられ、一章毎にその人の視点で語られることだ。
 ヒロインは自殺した飛鳥かもしれないが、彼女は死んでブラック・ボックスに入ったようなものだ。まわりの人が彼女(の死)についていろいろ憶測することで物語は進行する。
 彼女の死因にもっとも近いところにいるのが、ストーカーの江島である。
 彼は講師をしているコンピューターの専門学校の生徒の飛鳥に目をつけ、無言電話をかけ始める。匿名の手紙を彼女のアパートの郵便受けに投げ込んだりする。飛鳥はその頃から拒食と過食をくり返し、コーヒーを使って腸の洗浄をして、食べたものをすべて出してしまう。江島は飛鳥のアパートの部屋に押し入り、レイプしかけるが、彼女の下腹に大きな傷跡(大腸を短くするために手術した痕)を見て、欲情が萎え、そのまま立ち去った。飛鳥が首を吊り、ナイフで腹部を刺して自殺するのは、その四か月ほど後のことだ。
 飛鳥はストーカーに追いつめられ死を選んだのか? こう考えるのがまず妥当な線だが、真実は“藪の中”である。
 ストーカーは妄想に生きる。江島によると、相手は無言電話に「慈悲」を示すというのである。「受話器の向こうの沈黙そのものが以前より柔らかく『慈悲』を湛え、しかもそれは少し孤独で、恋愛を欲しているようにも思えた」―こういうのは、なんでも自分に都合よく解釈するストーカー心理をよく表わしている。
 あるいは「君の足の指を舐めたい」という手紙を投函すると、その晩の無言電話では、彼女が受話器の向こうで足を自分のほうに投げ出していると感じる。「『慈悲』を感じたその沈黙が、いわば江島にとっての飛鳥の、全盛期だったのかもしれない」。「全盛期」とは、江島の妄想における二人の恋の絶頂、という意味である。
 とはいえ、死人に口なしではないが、飛鳥の心が死によって封印されているため、江島の自分勝手な心のはたらきを一概に誤解と決めつけるわけにはいかない。飛鳥自身は生前、「ストーカーって、ほんと不思議な人たちだよね」と、ストーカーに理解を示すような微妙なせりふを残しているのだ。
 飛鳥は本当は孤独で、恋愛を欲していたのかもしれない。さらに言えば―ここからは読者もまた江島とともにストーカー的独我論の魔界に入るのだが―彼女は電話の男を愛していたという解釈も成り立つ。飛鳥が痩せてゆくのは、恋のせいと考えられなくもないのである(解釈と思い込みは紙一重だ)。
 実際、飛鳥は江島が無言電話のバックでかけていたCDの音楽(「神の庭」)を探し出し、ストーカーのことで相談したボーイフレンドの倉田のいるところでも、そのスペイン語の讃美歌のような曲をかけて、倉田にいやがられたりする(ちなみに表題の「リーラ」とはヨーガで言う「遊戯」のこと。江島の解釈だと、飛鳥と江島は無言電話で“繋がり”、「神の庭」でリーラしていた、ということになるのだろう。どこか日野啓三の最後の短編集『落葉 神の小さな庭で』に似通う表題だ。とりわけ飛鳥の“成仏”を描く結末は日野の「神の小さな庭で」を思わせ、浄福に満ちる)。
 ストーカーの江島が赤いバラを持って飛鳥のアパートを訪れるところは伊達な恋人のお手本みたいだし、倉田が部屋の隅に隠れている間に飛鳥とストーカーの間で演じられるのは恋の修羅場とも言える。倉田が部屋の奥から出てみると、「そのときはすでに飛鳥が玄関に両手をついてくずおれ、男は赤いバラの花弁を一面に散らして去ったあとだった。僅かに葉を残したまま折れ曲がったバラの枝が、飛鳥の長い髪をかすみ網みたいに乱していた」という場面など、恋にくずおれ、乱れる女そのものではないか。
 『水の舳先』(新潮社)以来、死ぬ瞬間の「恍惚」を描いてきた玄侑。ここではストーカーが自分の思い込みによる恋の成就の瞬間を迎えようとするのだが、その瞬間とは逃れ去る時、―赤いバラの花で打つしかない空虚な時間だったのだ。
 飛鳥は自殺以前から「この世」の人の理解が届かない世界に遊んでいたのである。自分でも「前世」は十三世紀の北イタリアの修道女だったと言い、「そこでの飛鳥は」と弟の幸司は思い描く、「必ず黒い修道服を着ており、やつれた顔にはなぜか淡い嗤いにも似た恍惚が感じられた」。
 これは恋する女のアレゴリカルな肖像ではないか? 古典の『クレーヴの奥方』では、ヌムール公に恋されたクレーヴ夫人は、叶わぬ恋だと知り、最後に修道女のような生活に入るし、三島由紀夫の『春の雪』では、清顕に恋された聡子も、最後に剃髪して月修寺の尼になる。
 『リーラ』では、飛鳥と江島の関係は最初から終わっているようなものだ(いかにも恋とは、叶わぬから恋なのである)。飛鳥は恋が破綻してこの世を棄てる古典的なタイプのヒロインではない。あらかじめ破綻した「あの世」の人として江島と接している。
 江島は江島で、飛鳥を最初から現世の女とは見ていない。彼女との交際はもっぱら電話で行われ、言葉さえ交わされない。デジカメで撮った飛鳥の写真をパソコンの画面で見ながら無言電話する江島は、まるで幽霊とつきあっているようだ。
 そこで欠落しているのは肉体であり、現在という生(なま)の時間だ。飛鳥と江島が生身では交わることがないように、飛鳥に向けられる問い―なぜ彼女は死を選んだか―は、ついに彼女の的を射ることはない。飛鳥は桜の花びらか蝶そのままに(桜と蝶は飛鳥の亡魂のようにして頻繁に出て来る)、彼女を問う人の手を逃れ続けるのだ。
 玄侑の小説では、人は死んでも、まだ死んでいない。魂が「中有(中陰)」にとどまる。これは電話やネットでしか繋がることのない現代人の孤独を、飛鳥の霊魂が“成仏”するまでの哀傷に重ねて描いた佳篇である。


「新潮」2004年10月号