「無明に光りを」

 「鈴虫とアミターバ」  〜肉体滅びても魂は残る〜        




瀬戸内寂聴   

 多くの人にあの世はあるのか、極楽はあるのか、地獄はあるのかと訊かれる。問う人は年齢も男女の別もない。
 殊に近い過去に愛する人に死別した人たちは、涙ながらに真剣に訊いてくる。また現在、すでに医者から死期を予告された病人を介護している肉親からも問われることが多い。
 そんな時、わたしは全く困りきってしまう。
 八十一歳まで長生きするとは愛別離苦を、骨の芯まで味わうことだと思い知らされている。そんなわたしがあの世があるかないかなど、口幅ったいことを言えるわけがない。しかしわたしは三十年前出家して尼僧になっているので、質問者は、何かしら出家者の口から、はっきりしたあの世のイメージを聞きたいと思うらしい。
 出家以前は、私は無神論者を標榜していたが、それは無智の恐いもの知らずの思い上がりで、真剣に自分がどこから来て、どこへ消えて行くのかなど考えたことがなかったのが正直な告白である。
 けれども出家後、次から次へ親しい人、愛する人をあの世に見送る度、わたしは僧侶としてひとりで亡き人のために阿弥陀経をあげる習慣をつけていた。阿弥陀経の中には人が死んで往く浄土の光景が美しく描かれている。そこでは人々は食べる心配もなく、年中美しい花が開き、美しい声で鳥が鳴き、家々は金殿玉楼で、池は金砂銀砂が敷きつめられ車輪のような大きな蓮が咲き、光りを放っているという。その極楽浄土の描写は、現代人の我々の目には、あまり劇画チックで、そこに住みたいという意欲にとらわれない。けれども貧困と飢えに苦しみ、住む家にも不自由していた二千五百年前のインドの民衆にとっては、そういう極楽浄土の描写だけでも、心が慰められたことだろう。二十一世紀の現代では、人々は人工の力で金殿玉楼を築き、電気という魔法の力をもつものを発明し、夜の闇さえ追放してしまい、まぶしい光りに満ちた歓楽街を造り出している。ところが人間の自力で造り出した極楽は、どうも住み心地が快適ではなく、そこでは争いと殺戮が性こりもなく繰り返されている。その悲惨さこそが、地獄で、お寺で見せる地獄図のような絵空事ではなく、これこそが現実の地獄だと思わずにいられない。
 死ぬのが怖いのは、あの世への旅立ちには地図のない国へ向かう不安が先立つからだ。ほんとに極楽はあるのか。先に死んだ愛する者たちはどこへ行ったのか。そういう質問に責めたてられていたわたしは、わたしの息子くらいの年齢の玄侑宗久さんという禅宗の坊さまの小説「アミターバ」にめぐりあい、一気に読了した。
 そこには慈雲という作者の等身大らしく見える僧侶がいて、その僧の妻の母が、悪性のガンに冒され、医者から三ヵ月の余命と宣言されている。八十歳のその義母の病床の独白で、小説が構成されている。この病人は性格が明るく楽天的で、聡明ながら、おっとりしていてユーモアを解する剽軽さを具えていた。
 この病母を介護する娘夫婦の優しさと献身は、現にそれと同じ立場にある人も、かつて同じ経験をしてきた人も、やがてその立場に置かれることを逃れられない人も、一人残らず、深い感動に打たれ心を震わされずにはいられないだろう。自分が死の病に倒れたなら、このような心こもった優しい介護を受けたいと誰もが望むだろう。
 中でも慈雲の説く人が死ぬとその瞬間何かがエネルギーに変わり、その熱量は、二十五メートルプールの五百二十九杯分の水を瞬時に沸騰させるという話にはびっくりしてしまった。小説の主人公と同じ八十ローバのわたしは、この病人と同じ程度にしか、慈雲の説く物理学は理解出来なかったが、人間が死んで、肉体という物体が消えても、エネルギーとなって残るという説には、非常な安心感を得た。
 わたしが日頃、人間は死んで肉体は灰になっても魂は残ると思うんですよと、人々に話していることの「魂」を「エネルギー」と置き換えればいいのだとハタと気がついたからだった。この小説では「幽霊」のことを「出現物」と呼んでいる。要するに、エネルギーとか出現物とか言えば、物理学的に高尚らしく聞こえるが、死んでも魂が残り、逢いたい時には幽霊となって、逢いに来ることが可能なのだと考えればいいのではないか。アミターバ。無量光明、阿弥陀さん。禅僧が説く浄土教のような慰めのことばに、こよなく心が惹かれた。
 わたしは唐突に思い立ちいきなり福島三春の里の福聚寺に訪ねていった。桜で有名な古刹の副住職で新進気鋭の宗久さんは、何の不思議さも見せず迎えてくれた。
 「さっき、今年はじめて鈴虫が鳴きはじめたんですよ。まるでお待ちしていたように」
 玄関の上がり口に硝子鉢に飼われた鈴虫たちがうごめいている。日増しに遠くなっていくわたしの耳にも、寂かな澄んだ鈴虫の音が沁み透ってきた。これこそアミターバ、極楽から送られてくる梵音だと、わたしは全身で聴き入っていた。


読売新聞 2003年9月17日