「私には、仏教語というものが語る世界を、そうじゃない言葉に移し替えたいという思いがあります。とくに『浄土三部経』が描く浄土のさまは、想像にしてはあまりに緻密なんですね。最近になって臨死体験との共通性が指摘され、浄土教の創始者たちもある種の臨死体験をしたのだと言われるようになりました」
福島県三春町の福聚寺で、玄侑さんが語り始めた。十四世紀に創建されたこの古寺に生まれ、今は副住職。宗教はもちろん、心理学や物理学にも幅広い知識を持ち、人の「心」と「体」の密接な結びつきなど仏教が直接的に説いてきたことが、近年科学的にも証明されている事実を重視している。
「浄土教の説くアミターバという世界も、単なるつくりごとではなく、誰もが体験できる一つの状況ではないかと思って、この作品で書いてみました」
それは、人が死後に出会いアミターバ(無量の光)に出会い、一体化するという世界観。作中の主人公「お母さん」はがんを患い、娘やその夫の僧侶たちにみとられて臨終を迎える。通常の小説ならそこで終わるところだが、『アミターバ』ではお母さんが生前の意識を保ったまま光を放つ天女となり、巨大な光の中に入っていくまでを描ききる。
そのアミターバという考え方を「すべての仏教にこれを超えるものがないほど魅力的です」と話す玄侑さん。「阿弥陀如来」というキャラクターにされてしまっていたアミターバを、一つの現象としてもう一度読者に提出したかった、という。こうして、人間の死後の世界と真っ向から向き合う作品世界を作り上げた。
「デビュー作の『水の舳先』では、死の迫った人間が最後まで持つ欲求としてコミュニケーション欲≠ニいうものを想定しました。しかしテーマをそこに絞ったために、亡くなる瞬間のことは最後の五行で済ませています。その五行を一編の作品として書きたい、という思いが前からありました。それがようやく実現して、うれしいです」
もっとも小説『アミターバ』は仏典の新解釈に終わらず、作品としての豊かなふくらみを持つ。死に近い母を懸命に支える娘と僧侶や、家族に感謝しつつ生涯を終えて新しい存在に変わる主人公が、書き手の深い思い入れを感じさせる筆致で描かれているからだ。その「お母さん」とは。
「小説の設定と同じで、女房の母です。まもなく三回忌です。私も小説のように毎日病院に通いました。人間の死後というテーマは以前から持っていたものですが、お母さんが亡くなり、その冥福を祈る思いがなければ『アミタ−バ』は書けなかったと思います」
ひょうきんだった「お母さん」は自分の葬式にも参列する。悲しみに沈む娘たちを思いやり、個人の人柄をたたえる僧侶の追悼の言葉に「褒めすぎとちゃうか」と茶々を入れたりもする。葬儀という場に似つかわしくないユーモラスな描写は、「死」が人間の意識やつながりすべて断ち切る「虚無」ではない、と訴えてもいるようだ。
「ある意味で死とは、狭く規定しすぎていた自己からの解放ではないでしょうか。自分の中に、ふだんは意識しない私が住んでいるというのが仏教的な考え方です。欧米的なアイデンティティー、あるいは人格の統一をはかるといった近代的な人間像の考え方には、その幅はありません」
そうした仏教の知恵にふれ、日常生活での実践に結びつけてもらおうと、玄侑さんはもう一つの近著『私だけの仏教』(講談社)を書いた。仏教の基本や多様な宗派を総論的に紹介し、「自分だけの仏教」を探すための案内書だ。
「仏教の教えを、学問のガラスケースの中に保存するのではなく、血を通わせたいと思います。私自身、どんなにすばらしい器でも、ガラスケースに入った物には興味がないんです」
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