芥川賞の受賞決定後、友人からメイルが届いた。「中陰という言葉を現代日本に浮かび上がらせた宗久さんも大したもんだ。流行語大賞となり、たくさんの人が中陰ガムなんか食べるようになれば今の日本人の知的ユーモアも水準が高いと言えるのだけれど、無理か……」なるほど中陰ガム、そりゃあ面白いと思った。
『中陰の花』ではわりと真面目に仏教的な世界観を提出し、おがみやさんの世界とせめぎ合うように話が進むので、作者としてはそんな冗談を浮かべる余裕はなかった。しかし言われて考えてみれば、中陰ガムとはじつに深い冗談かもしれないと思ったのである。だいいちガムは憑きやすいし、ガムを咬む顔つきというのは、もしガムを咬んでいないとしたら、よほど深い恨みか苛立ちでもないとあんな口の表情はしない、というくらい独特のものだ。「いや、ただガムを咬んでるだけだよ」と言われ、ようやく頬に入る不気味な皺にも納得するという具合ではないだろうか?
「このガムを咬んでいれば余計な恨みを自然な形で放出しますので、死後に恨みを遺す心配はなくなりました。危ない、と思ったら、中陰ガム」なんて莫迦(ばか)なことを考えてしまった。
冗談はともかく、死後という、解らない世界を今回『中陰の花』で描いたわけだが、これがどんなふうに受けとめられるのか、些(いささ)か不安もある。中陰ガムなどは可愛いものだが、もっと深刻な、誤解と云えることもあり得ると思うので、この場をお借りして多少弁明をしておきたい。
すでに新聞で作品のあらましを読んだだけの読者から筋違いな相談ごとも来ている。「私の友人は若いんですけど、誰が今どこにいるのか、全部分かっちゃう人なんですけど、こないだ喧嘩しちゃって、それからは毎晩私の夢に現れるんです。寝るのが怖くて、私痩せてきちゃったんです。なんとかしてください」若い女性からの電話だったが、そう言われても困る。
私は作品では、「分からない世界観を分からないまま受け容れてみる」僧侶を主人公に設定したが、それがたとえば私自身と誤解されたにしても、主人公も私も「分かっている」わけではないからである。
しかし「分からない」と私が思っている世界を、「分かっている」と表明している人は世間に大勢いる。なかには死後の世界を見てきたという人の本まである。どんなにビジョンを提出しようとそれは勝手かもしれないが、その正しさを青筋たてて主張する力みと性急さに、私は興ざめる。私は分からないままでいいのではないかと考えており、その上で、ある種のビジョンを描いたのである。民族性や風土などによってそうしたビジョンに違いがでることも面白いと考えている。
しかし、柳田国男がフィールド・ワークした時代からするとあまりにも世間が均一化してしまっているせいだろうか、人は違うことの面白さでは落ち着かず、正しさや解決を求めているような気がする。死後の世界にしてもこれこそ正しいのだと力むし、また不思議な現象に対しても、理屈はどうあれ解決してくれればいいのである。私に電話してきた女性も「なんとかしてください」と頼むのであり、けっして「どういうことなのでしょう?」と訊きはしない。
結果だけが欲しいならたぶん我々僧侶よりずっと有能な人々がいる。おがみやさんも恐らくその一部だし、各種の占いも同様の背景で繁栄しているのだろう。中国など今や空前の「風水」ばやりである。要は自信をもって断言されたい人が増えているということなのかもしれない。
たしかに「分からない」ことを分からないままに受け容れるというのは、とても難しいことなのかもしれない。しかし「慈悲」とはたぶんそういうことなのだろうし、恐らく全ての人間関係において、「分かる」ことは愛するためには必要ではない。「分かる」とは文字通り「分断」し、「分からない」部分を切り捨てる作業なのだと思う。男女間のことにしても、「分かる」から結ばれたいのではなく、むしろ「分からない」から結ばれたいのだ、という感覚はあまりに日本的だろうか?
ともあれ我々は常に「分かる」世界と「分からない」世界の境界に佇んでおり、それこそが、「中陰」でもある。
釈尊は「神通力」の存在を認めている。そのうえで、それだけを欲しがった徒兄弟のダイバダッタを諌めたのである。
私も何人ものおがみやさんに会い、そして感じるのは、やはり彼らには見えないものがみえているのだろうということだ。しかしそこで注意すべきなのは、たぶん彼らが「見えている状態」というのは、(これは推測でしかないのだが)言語中枢つまりロジカルな脳機能が停止している状態でもあるような気がする。つまり「見えている状態」をどう語るかは、「見えていない状態」のその人の思想や人格をとおした論理次第ということになる。だから釈尊は、神通力が修行の過程でついてくることは認めても、それだけを技術として習得することは許さなかったのではないだろうか?
大事なのは「見えいてる」ことではなく、それをどう解釈するか、なのだと思う。
じつはこれを書いている今はお盆の直前である。お盆にはあらゆる亡者の霊が我が家へ戻ってくるとされている。『中陰の花』の圭子のように、それを「うわんうわんうわん」と感じる人もいるだろう。それを否定はしない。
しかし「盂蘭盆」というのは、やはり永い歴史の揺りかごのなかで見てきた民族の夢、幾たびもの修正や添削を経て生き残ってきた「物語」なのだと思いたい。
もともと「仏説盂蘭盆経」じたい中国でできたお経だし、インドでは十万億土の彼方に行ったままだった霊、あるいは次の肉体を得て輪廻しているはずだった命が、中国で初めて戻ってくることになる。そしてそこにはそうならなければ済まない、切ない物語がある。それは全ての親が、我が子を育てるためには余所の子供への愛情を惜しまざるを得ない、という中国人の認識である。しかも原則は平等であるべきだと彼らは考えるから、そのことは「餓鬼道地獄」へ堕ちるべき罪と認識される。だから彼らにとっては、自分を育てるために犯した罪で地獄へ堕ちている親たちを救う切実な行事が「お盆」だったのだ。
しかし日本ではまた日本の味付けがなされる。だいいち親たちが今地獄にいるという話を、まず我々が本気ではできない。やはりなんとなく、亡父母は極楽にいると思っているのである。すると親たちは何のために戻ってくるかという理由が希薄になるが、たぶんそれは我々に「慈悲」を注ぐためだろう。日本では人が死ぬと神になったりホトケになったりする。人間のまま鬼になり、暗く冷たい幽冥界に行く中国とは違うのである。
だから中国で生まれた七夕伝説も日本ではお盆と合体して面白い変形を見せる。竹を立てるのは六日後に戻ってくる先祖が迷わないためであり・短冊に書く祈りや願いも、じつは星ではなく先祖に宛てているのだ。
まるでチューインガムのように物語は変形し、しかもくっつきやすい。そしてガムと同様、物語とは必要不可欠なものではなく、人生に味わいと香りを加える程度のものだ。しかし、いや、だからこそ私は、「物語」が必要なのだとも思う。
味も香りもなく言ってしまえば、たぶん人はただ生きてただ死ぬ。しかしそれではあまりに寂しいし辛い。だから人は生きていくうえで心強い物語、あるいは納得して死んでいけるような物語を、文化として築いてきたのだろう。
そう納得したうえでなら、どんどん想像力を膨らませ、幽霊でもおばけでも妖怪でも見ればいい。それが大人の文化というものだろう。それを「あるかないか」、あるいは「正しいか間違っているか」と目くじら立てるのは、まるでガムの効用を議論するみたいに虚しい気がする。
こう言うと、なんだ、じゃあ作り事なのかと思う人がいるかもしれない。しかし私は、人間の作り事と自然の作り事とに、いったいどんな差があるのかと思う。いずれにしても認識するのは人間の脳なのである。『中陰の花』のなかでも書いたが、信じれば「ある」し、信じなければ「ない」というのは、真実なのだと思う。
それを非科学的と論難する向きはあるだろう。しかし科学という網が飽くまで再現する現象だけをその対象にしている以上、その網にかかるのは諸行無常の現象のほんの一部、言わば現象の死骸に過ぎない。しかも科学は、現象を見つめる人の「心」という「明滅する有機交流電灯」のような「わたくしという現象」を無視している。あらゆる現象は、たぶんこの「わたくしという現象」と共振して変化するのである。
私は『中陰の花』で、じつはそうした「共振」を描いてみたかった。人が人と共に生きてあることの最大の面白さは、そこにあると思うのである。
どんな世界観をもってもかまわないし、死後にどんなビジョンをもってもいいと思う。大事なのは自分の世界観やビジョンが「正しい」と思わないこと。そしてどこまで想像力を膨らませても、それは世界を分断する作業でしかないという認識ではないだろうか?
「分かる」ことが増えていけば「分からない」ことが減っていくのではないのかもしれない。常に我々は巨大な「分からない」世界の前に佇んでいる。そしてその不安をなんとかしようと、今日も「物語」というガムを性懲りもなく咬みつづけているのだろう。
どんなガムなら売れるだろう?
新発売。「中陰ガム」−。「咬めば咬むほど世の中が分からなくなります」いや、それじゃ自殺者が増えるだけだろう。「咬むたびに七種類の幻覚を楽しめます」いやいや、これも危険だ。それなら…、「咬むほどに慈悲深くなり、異質な考えも受け容れる気分になります。ただし咬みすぎると優柔不断に見えたりするのでご注意ください」
ロッテさん、そんなガム、できます?
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