鶴と亀と還暦

 還暦に思うこと、というご要望なので、一巡した丙申(ひのえねさる)までの人生を些か振り返り、いま思うことを書いてみたい。
 自分のこれまでの人生を省みると、どうやら私は敷かれたレールからいつも少しずれた道を歩き続けててきたように思える。レールそのものは意識するのだが、それを見たうえでズレるのが刺激的なのだ。今では意識しなくとも、なんとなくズレている。
 中学生時代にはそんな性向を「楕円」に喩えて考えたこともある。二つの点から等距離の集合が「楕円」だが、大きくは宗教と文学、禅と通仏教、そこまで言わずとも、学校と仕事(アルバイト)、伝統宗教と新興宗教など、どうしても片方に一本化することができず、気がつくと双方から等距離の奇妙な軌道を歩いていた。
 もしかすると、彼女とのつきあいと勉学・仕事なども、そういうスタンスだったかもしれない。醒めている、とも言えるだろうが、どちらかと言えばそこに起こる葛藤に、大袈裟にいえば生きるエネルギーを得ていると思っていた。
 考えてみれば、小説としてデビュー作となる『水の舳先』や『中陰の花』も、この世とあの世の「あはひ(間)」の話。また『アブラクサスの祭』だって、正常と異常の「あはひ」を描いたものだ。
 そんな私が
目下の関心を寄せるのは、一番はどしてもイスラム教社会とキリスト教社会との反目、そして次に気になるのは、福島県民の分断による大きな亀裂である。
 なによりイスラム社会は、現在のグローバリズム推進主体である西欧キリスト教圏とは根本的に思想が違う。同じ「アブラハム宗教」と括られるだけに、その軋轢は根深く厄介だが、特に利子を用いない金融や、偶像を一切禁止するその徹底ぶりは、いわゆる西側諸国の理解を超えたものと云えるだろう。一切の偶像描写を禁じたからこそ幾何学模様(アラベスク)が発達し、幾何学そのものも発展したのだが、それは西側の「表現の自由」から考えれば隔絶した別世界だ。どちらが正しいという問題ではなく、それは双方とも、長い伝統のなかで培われた異質な文化なのだ。
 もう一つの福島県内の分断は、伝統や文化の問題ではないが、これもそれなりに深刻である。賠償金による分断だけでなく、同じ放射線量についての態度が完全に二分している。片やそれは危険だと県外に避難し、片やそこに残っても大丈夫だと、今や普通に暮らす。
 これは本来、学問的にケリがつく問題のはずだが、震災後に失墜した放射線を巡る学問は、沈黙したまま分断を放置する。いや、それよりもおそらく、「安心」しなければ「安全」じゃないかの如く、常に「安心」「安全」と併記してきた国の態度に問題があるのかもしれない。思えば除染という行為は、この分断あればこそ成立する。不安な人が依頼し、大丈夫だと思う人々が実際に除染に当たるのだから、分断はじつは除染作業のためには不可欠なのである。
 こんなことを思っていると、なぜか浮かんでくるのは「鶴と亀」の姿である。昔から「鶴と亀」は道教における長寿と和合のシンボルとして受け継がれてきた。しかしよく考えるとこの両者、長寿はともかく価値観があまりに違いすぎる。それぞれ蓬萊島の使いであったり、天に声が届くとされたり、端獣であることに間違いないが、鶴にすれば池の泥にまみれて一生を送る亀など、理解を超える存在だろう。逆に亀にとっても、一本足で眠る渡り鳥なんて信用できない、と思うのではないか。
 ならばこの「鶴と亀」、なにゆえ和合のシンボルなのだろう。
 それはおそらく、価値観が極端に違う人々の和合こそ、最高の和合だと考えられたのではないか。両者がお互いの考え方を、心底理解するのは難しい。しかしそうだとしても、仲良くすることは可能ではないか……。「鶴と亀」はそんなメッセージを告げているように思えるのである。
 私は、日本こそが西欧圏とイスラム圏に対し、この難しい和合を呼びかける役どころだと思う。福島県内の分断について具体策は見えないが、これまた楕円軌道を動きつつじっくり和合を目指すしかあるまい。
 女房にこの話をすると、「鶴が女よね」と疑いもなさそうに言う。私は、そうじゃない見方も示したいと思ったが、還暦でもあるし、和合のため、ぐっと怺えて頷いた。還暦には赤いちゃんちゃんこを着るようだが、これは赤子に戻る意味だ。赤子だから赤なのではなく、幼児の魔除けのために着せた赤だという。どうせなら金色の鶴と亀が戯れる真っ赤なちゃんちゃんこでも着てみようか。冗談ではなく、これは切なる祈りである。


 「うえの」2016年1月号