第三回

天眞(てんしん)を養う

 

人生の目標は、本来、大きく、遠くに見据えるべきである。若者は、遥か遠くの星のような目標を立ててみるとよい。天眞を養い、天から授かった「いのち」が自然に発動すると、思いもよらぬ力を発揮する。



人生の目標を遠くに見据える

 若いときは、どうしても少々背伸びした目標を立てることが多い。それは自分を進歩させるため、時には必要なことなのだが、習慣化するのは些か怖い。三菱自動車の燃費偽装事件も、そんな習慣が積み重なって起きたのである。
 たとえばあの大学に入りたいとか、あの会社に何としても入りたいという目標は、叶えばいいが、失敗しつづけてとうとう叶わなかった場合、長く敗北感を引きずることになる。
 しかし人生の目標は、本来もっと大きく、もっと遠くに見据えるべきであって、そんな中間的な通過点は最終的にはどうでもいいのである。たとえば「人の役に立ちたい」とか「微笑んで死にたい」など、遥か遠くの星のような目標を立ててみるといい。
 あとは目の前の石に躓かないこと。それだけ注意していれば事足りる。中間的な道筋はどんなふうでも、さほど問題はないはずなのだ。いや、自分で考える計画的なプロセスよりも、むしろ刺激的な進み方が偶然見つかるかもしれない。とにかく目の前と遠くの星だけ気にしていれば、万が一、石に躓いて転んだとしても、首を上げれば同じ星が見えるではないか。遠くの星はけっして見失わない。だから生き方もブレにくいのである。
 むろん私は、努力を怠ることを勧めているわけではない。いま努力して目指そうとしている目標が、果たして「自然」に叶った方向なのかどうか、常に振り返ってほしいのである。
 人間はおそらく、人工的な価値観にも相当適合できる生き物だ。たとえば部長であれば、常に部長らしく振る舞おうとするだろうし、変な先生に習うことになれば、かなり無視してでもその先生に合わせようとするだろう。それじたい悪いことではないのだが、あまり無理をすると長続きしない。つまり「いのち」に負担がかかりすぎるやり方は、結局周囲にも喜ばれないのである。

虚懐天眞を養うとは

 色紙に書いた「天眞を養う」という言葉の上には、本当は「虚懐(きよかい)」という言葉が入る。「虚懐天眞を養う」。肚に一物もなく、なんの思惑もない「虚懐」の状態こそが、天眞(=天から授かったもの)を養うというのである。
 最近は、目標をもち、計画を立てることは、疑いもなく素晴らしいこととされる。しかし頭で考えた目標どおりに事が進むなら、なにも実際に行動してみる必要もないではないか。
 実際には、さまざまな偶然に左右されながら現実は常に目新しい形で起こる。誰もが実感しているはずだが、東日本大震災で蓄えたノウハウが、そのまま熊本地震に通用することはないのである。
 知識の積み重ねが、必ずしも無駄だというわけではない。ただそれが、「予断」という形で関わってくると、現実についての虚心な対応ができなくなる。天眞は抑圧され、自在な思考もできないまま、マニュアルをなぞるしかなくなってしまうのである。
 天眞を養うには、実際には時折自分の吐く息に意識を載せてみるといい。命が苦しんでいれば、間違いなく呼吸がまず乱れる。しかも吐く息が短くなっているはずだ。意識を載せながら、その息をできるだけ長くゆっくり滑らかに吐くよう心がけてみよう。それでもすぐに短い呼吸に戻るようなら、それは間違った方向に進もうとしているのである。
 「いのち」は自分のものと思わず、ときどきそうして調整し、養うことが自分の務めだと思っておけばいい。養われた天眞は、やがて笑いと共に思いもよらぬ力を発揮するようになる。

 月刊「書写書道」2016年6月号