入我我入

 
 シャシンと聞いて、初めに「捨身」を憶い、それから「ああ、写真」と思う。けれども写眞の眞とは何なのか、六田氏の作品を眺めるうちにわからなくなる。
 眞は、いつしかどこかに存在した束の間の時間かというと、そうでもない。印画紙に音がないから、という意味ではなく、そこに写された時間と空間を、我々は体験していないのだ。 
 我々の体験は、これまで無限に蓄積されてきた阿頼耶識に依拠している。そこに相似形の鋳型が見いだされれば、即座に電光が走り、感覚が知覚にまとめられる。知覚にはすでに意志の萌芽があり、火なた熱いもの、風にもその人なりのイメージが付加され、熱ければ避け、涼しければ近づいていく、といった行動を準備するのだ。
 ところが六田氏の写眞にはそれがない。火の熱さも、風の涼しさも、そこにはまだ生まれていない。嬰児がなにも知らず近づき、まだ熱さや激しさを知られていない火や風が、ここにはあるようだ。そんな写眞を、嬰児でもない六田氏がどうして撮れるのか。
 仏教ではこの世界を、地水火風という四大の融合体と見る。「大」とは大きいことではなく、根源的であること。四つの構成要素が融合した世界、と見ることもできるが、むしろ四つの観点から世界を見ることが可能だと思ったほうがいい。『大日経』はそこに空大を加えて五大とする。
 世界は堅固で安定したもの(地)であり、復元力と生育力に満ちた柔軟なもの(水)であり、さらに温かで時に激しく焼き尽くすもの(火)であり、同時に虚空のように無限の広がりと底知れぬ包容力をもたもの(空)でもある。
 どのような見方をしようとそこに観察者である自己(識)が関わっている。いや、自己の阿頼耶識あらばこそ、四大も五大も成り立つのだ。それを重大なことと見た空海は、さらに識大を加えて六大とした。そして『即身成仏義』において「六大無碍(むげ)にして常に瑜蛾(ゆが)なり」と記す。瑜伽とはいわゆる「ヨーガ」の音写だが、ここでは融合して渾然一体と化した状態と思えばいい。五大および識大も含めた六大が、融合してお互い障碍にならないのである。
 真言密教ではその状態を「法界体性智(ほつかいたいしようち)」と呼び、また「即身成仏(そくしんじようぶつ)」とも言う。禅では同様の事態を「見性」と呼ぶのだが、字義どおり申し上げればそれぞれが性(もちまえ)を(あら)(現)わし、我が身と世界が一体化して観じられる状態で、しかも仏教はそれを智慧と認識するのだ。
 おそらく傍から見れば、それは「呆」というイメージかもしれない。本人は「恍惚」で、世間的には役に立たない。なるほど、それで彼は六田(無駄)なのだ。六田氏が無駄を承知で写眞によって捨身する。そこにこれらの作品群が残されるのである。
 坐禅も護摩焚きも火渡りも、そういえば無駄な捨身の行だった。
 いったいどのような行によるのか、六田氏はなぜか阿頼耶識と接続されない感覚を駆使できるらしい。渾沌のなかから辛うじてモノが姿を現し、言葉が動きだそうとする刹那、彼はまだ誰も見ていない世界を写し取るのである。体験できない人々にとってそれは創造、いや「秘密の開示」とでも呼ぶべきものだろう。密教には「衆生の秘密」という考え方があるのだが、世界の側に隠そうという意志はなく、ただ我々の邪魔な知識や分別、感情という障碍のゆえに「秘密」になってしまうのである。
 火は風を生み、風は火を吹いて煽ったり消したりする。そんな常識も、六田氏の作品においては通用しない。ここには、熱くないどころか無風のうちに優しく佇む幽かな火もあれば、火と生まれたことに戸惑う火さえある。風だって、認識されなければ勢いも出ないのだろう。あちこちに感じられるのは褒められも貶されもしない大小の息のようなものだ。大きさに拘わらずそれは風の嬰児だ。
 世界と自己とが融合したり離れたりする。そこでの世界は天体現象から鉱物など、いわゆる無情をも含んだすべてである。我々はその世界と融合したくて「入我我入」と経文を唱える。六田氏もきっと経文を唱えるように被写体と一体化するのだろうが、いったい彼は何のために写眞を撮りつづけるのだろう。
 自受法楽……。仏教の用意する答えはこれしかない。入我我入(にゆうががにゆう)を遂げた法身は、いつ誰のために、どこでといった制約を一切離れ、自らの楽しみのために法を説き、写眞を撮りつづけるのだ。なんとも潔く、美しい「眞」ではないか。
 


  2016年9月