鍋の功徳

 
 冬になると、鍋を囲みたくなる。鍋をつつくでも、鍋料理を頂くでもいいのだが、やはり鍋といえば「囲む」という言い方が似つかわしい。独りで囲むことはできないから、そこには当然家族の団欒があり、また客との交歓がある。
 以前、内田樹さんの文章で、一つの鍋を囲むということは極端に言えば互いの唾液を飲み合うということで、それはお互いに認め合い、団結心を高める行為だ、といった内容が書かれていて感じ入った覚えがある。唾液とはっきり書かれると驚くが、なるほど実際は確かにそういうことで、無意識ではあってもそこでは親愛や信頼が鍋ろ通じて煮詰まるのだろう。
 最近は居酒屋などで独り用の鍋物があったりするが、これは分量に関係なく鍋の邪道と言うべきだろう。
 以前私は、認知症で徘徊する老人の物語を、『龍の棲む家』という小説に描いた。そこで龍とは自然に還ってしまった徘徊老人の意味だが、龍が追い求める珠は団欒なのだと書いた。認知不全の症状として、これなども普段から唾液による微かな交流で団欒していれば、防げるような気もする。
 むろんそうした効用ばかり求めて鍋を囲むわけではない。なにより野菜を洗ってザクザク切る準備の簡単さもいいし、皆でわいわい言いながら味付けしていくのもいい。誰でも準備から一緒に手伝える点がハレの気分に導きやすいように思える。
 ところで『江戸時代料理書』という本には、水炊きの原型とされる唐料理の鶏汁が「もうりゃう」と書かれている。「もうりゃう」と言われて浮かぶのは魑魅魍魎(ちみもうりよう)の「魍魎」しかない。鍋と魍魎について考えているうちに、高校時代に剣道部の合宿で体験した闇鍋を憶いだしたのでご紹介したい。
 それは剣道部の冬休みの恒例で、合宿の初日に真っ暗な部屋で蝋燭の火だけで行なう。基本的な材料は一年生が事前に買っておくのだが、鍋に入れて仕立てるのは、二、三年の先輩である。そして彼らは事前にそれぞれ特別な具材を用意し、それを鍋の底近くに仕込んでおく。
 土鍋では小さすぎるため、直径八十センチほどのアルミ鍋で煮詰めるのだが、「よしっ」という部長先生の合図で一人ずつ箸を突っ込む。蝋燭とガスの微かな光の中で、皆が抓んだものに注目する。一旦抓んだものは必ず口に入れなくてはならない決まりなのだ。
 先輩たちが事前に部長から言われるのは、全体の味が変わるようなものではダメ、口に入れることが不可能なものはダメ、そして金属・石・紙もダメだったかと思う。奇妙ではあっても面白い具材を選ぶ先輩のセンスも問われるのだ。
 上から先輩が食べていくため、二年、一年になるほど危険さは増す。恐る恐る抓みあげられる奇妙なものは、たとえば「蓮根辛子詰め」OK,「肉まん」OK,「ビニール袋入りショートケーキ」まぁOK、鍋の周囲の先輩たちが「OK」と声をそろえ、「食べろ~」と叫ぶ。
 南無三、いよいよ自分の番がきて抓みあげると、一瞬沈黙が流れ、「なんだそりゃ」という声が聞こえた。茶色で、固くはない、いや、むしろぶよぶよしているが……。「大丈夫だよ、新品だ」「靴下か」前後して先輩が言い、「OK」「口に入れろ~」と誰かが叫んだ。先生もにこにこしながら「はい、行きましょうか」と促すのである。
 今なら誰かが人権を言い立て、中止になるばかりか、先生も訴えられるだろうか。しかし当時の闇鍋は無性に楽しく、団結心も増したような気がする。インターハイで好成績を残したのが闇鍋のお陰かどうかは定かでないが、魍魎も入った鍋は「諦め」や「潔さ」、更には「勇気」も培ったのではないか……。まったくもって鍋の功徳は計りしれない。



イラストレーション 矢吹申彦

 

 

「てんとう虫」2016年12月号