うゐの奥山 その五拾七

デスモスチルス

 

 先日、久しぶりに北海道に行ってきた。帯広空港の北東にある本別町(ほんべつちよう)という小さな町、と言いたいところだが、人口は少ないが面積はやたらに広い。ちなみに隣の足寄町(あしよろちよう)は日本一広い町で、その面積は香川県より少し狭い程度というから凄い。本別町は小さいといっても名古屋市と同程度である。
 お招きいただいたのは、「母から子への手紙」コンテストで審査員をご一緒している末利光氏のご縁。神田甲陽という講談師でもある末先生は、もともとNHKのアナウンサーで帯広放送局が振りだしだった。その関係で本別町の図書館ボランティア「ぶっくる」の面々の朗読指導などもしており、図書館主催の講演会にご紹介された次第。
 とにかく豆が美味しいため、味噌も納豆もお菓子も美味しい。牛肉も地場産があり、ワインは隣の池田町が生産している。十月半ばすぎだったのに「十勝晴れに恵まれ、講演は二席あったもののゆったりした時間を過ごしたのである。
 ただ、今回の旅の印象は、というと、じつhじゃ本別町から日本軍の軍馬として出陣していった馬たちと、標題のデスモスチルスが圧倒的だ。
 日本軍の殆んどの軍馬は本別町で生産され、訓練され、出陣して戻らなかった。その馬たちや、陸軍省馬補充部の十勝支部員として育成に関わったバロン西氏(一九三二年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト)などの展示が図書館の隣の資料館にある。
 戦死した馬たちの写真は、三日目に体験した北海道の雷雨のように衝撃だったが、これはあまり深く想像したくない。むしろ資料館の表に鎮座する奇妙な生き物に、どんどん想像は膨らんだのである。
 デスモスチルスとは、昔北海道が海で分断されていた頃(というより、幾つかの島がまだ大きくまとまっていなかった頃)その海に棲んでいた半海棲の哺乳類だというのだが、体長は幼獣でさえ、一、八メートルもあり、体重三百キロにもなったらしい。
 岐阜県でも頭骨が発見されているから、昔は日本を含む北半球の太平洋沿岸に、相当多く棲んでいたようだ。デスモスチルスとはギリシャ語の「束」と「柱」に由来する名前で、その柱のような歯の構造から、昆布などの植物を食べていたと推測される。
 隣町の足寄動物化石博物館に行くと、研究熱心な学芸員がじつに詳しく説明してくれたが、そこにはデスモスチルスの祖先獣とも言えるアショロアの復元骨格模型も展示されており、興味が尽きない。
 なにゆえカバやウミガメは生き残り、デスモスチルスは絶滅してしまったのか……。アザラシやアシカはともかく、トドには敵わなかったか……、などと考えていると、デスモスチルスはこの世で生きにくいほど不器用で優しい動物に思えてくる。たぶん、そうとは限らないのだろうが……。

 


 東京新聞 2016年12月3日