日本人の中の「禅」

 禅の起こりは、中国にやってきたインド人の菩提達磨とされる。まるでその来歴を語るかのように、我々禅僧は和服の上に中国風の法衣を着用し、インド由来の簡略な袈裟(福田衣、絡子)を身につける。禅に限らず、殆んどの仏教僧がそれに準じた服装だが、こうして風土に融合した形で、日本の禅も息づいているように思える。
 ここでは、「融合性」、それを導く「無心」、「応化力」、「生産性」などの観点から、日本人の奥深くに根付いた「禅」について考えてみたい。
 また禅は日本文化の諸相にも深く沁み込んでいるわけだが、それについては川端康成氏のノーベル文学賞受賞記念講演『美しい日本の私』からの引用をご容赦いただきたい。該書は禅についての勝れた洞察に満ちているだけでなく、その幅広い文化への影響にも過不足なく言及している。
 川端氏の語る禅の中心には、おそらく「末期の眼」がある。芥川や太宰の自殺を讃美も共感もしない、と言いながら、氏は芥川龍之介の遺書から次の文章を引用している。
君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである。
 はたして末期のとき、自然がどのように見えるのか、私にはまだ語れない。しかし川端氏は明らかにこの「末期の眼」に、深い禅定による道元や明恵の体験を重ねるのである。講演冒頭に引用した二人の歌がこれである。

春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて涼しかりけり(道元)
雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷めたき(明恵)

 つまり川端氏は、道元や明恵が深い禅定によって自然に同化したさまをこの歌に看取る。さらに「我にともなふ秋の月」には「風が身にしみないか、雪が冷たくないか」と呼びかける明恵の「あたたかく、深い、こまやかな思ひやり」と感じ取るのである。
 じつに文学的な深い洞察だが、たしかにこうした自他一如の境地、いわば「無我」「無心」の状態は、深い禅定によって得られるもの。
 それは釈尊の教えから一貫している。またいわゆる慈悲心というのも、本来深い禅定から無意識に放射されるものである。
 日本のさまざまな芸事や茶道・華道・そして武道などには、川端氏も指摘するようにこの「無心」の習得が必須である。同じ所作を何度でも繰り返し、無意識(無心)にできるようになる(=身につく)ことで、人は自由になり、主体的であり得ると考えるのである。
 無意識が意識よりも深く多くを知っている、というのは、川端氏も親しんだ唯識の考え方だが、むろん禅にも共通する。だから禅は、無意識における直観を重視する。
 日本という国独特の禅を考える場合、道玄禅師の歌が四季を詠っていることにも注目すべきだろう。おそらく世界でも、これほどはっきり四季の感じられる国はないし、この国の人々はそのことを喜んで享受してきた気がする。
「人の噂も七十五日」と言い、また「初物を食べると七十五日長生きする」とも言う。以前の私はなにゆえ七十五日なのか悩んだものだが、じつはこれ、三百六十五日を四で割った約九十一日から各季節の移行期間である「土用」十六日を引いた数字なのである。
 つまり春の噂を夏になってもしているのは阿保だし、どの季節でも初物を食べれば一つ季節を多く生きられる。季節によって気分が変わることを日本人はそれほど当然のこととして期待したのである。
 川端氏は一休禅師の次の歌を引用する。

問えば言ふ問はねば言わぬ達磨どの 心の内になにかあるべき

 「無心」を実現してみれば、肚に一物もないのだから、こちらから言うことは何もない。すべて境に応じ、人に応じて対応するのである。四季の変化という最大の境の変化はそれゆえ心の発現にも直結する。和語の「しあわせ」が奈良時代の「為合(しあわす)」から室町時代に「仕合(しあい)」と表記し直され、上手な受け身を意味するようになったわけだが、何よりこうした無心による受け身に禅の影響が感じられる。
 ただこの「無心」、受け身ながらじつに活発な生産力を有している。川端氏によれば、この『無』は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙」ということになる。
 中国北宋の詩人蘇東坡居士は、禅の修行をしたことでも知られるが、「無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り」の一節を残した。無一物(無心)であればこそ、境に触れ、人に接しても対象がありありと如実に見える。またそれは、無心における心の生産性も表現しているのだろう。
 私事で恐縮だが、芥川賞をいただいたとき、天龍寺の師匠である平田精耕老師から一幅を一本頂戴した。その半切には、半身の達磨の上に「無一物中無尽蔵 花~」の揮毫があった。私は禅僧でありながら小説を書く行為じたいを、師匠が認めてくださったものと理解し、猛烈に嬉しかった。
 深い無心の状態で明恵上人が月に同化したように、人はさまざまな行為に没頭することで自他の境界を無化し、自然とも一体化する。小説も、作中の人物や事象との一体化を前提にした心の生産性の発露である。老師はそれを祝福してくださったのだろう。
 こうした無心における応化力や生産性を、日本人がとりわけ好むことは日本独特の仏教事情によっても知られる。どの宗派でも観音さまやお地蔵さまだけは拒否しない。応化力の権化である観音像は中国にも多いが、心の生産性を象徴するお地蔵さんがこれほど増えた国はない。発祥地のインドでは絶滅寸前。中国でも辻ごとに祀られたりはしない。
 禅はこうして、不立文字といいながら文藝にも美術にもお茶にもお花にも入り込んだ。いわば無心の応化力と生産性の賜物であろう。
 心の生産性、活発さを重視する禅は、停滞を嫌う。停滞にはさまざまな原因が考えられるが、何かを絶対化することも大きな原因だろう。
 仏教徒であれあば、少なくとも仏には絶対の帰依を示し、禅宗ならば達磨を初め祖師たちにも絶対の敬意を払うと思うだろうが、そうではない。自己の開発、換言すれば状況の変化に応じた自らの変化こそ重要なのだ。川端氏が示した「仏に逢へば仏を殺せ、祖に逢へば祖を殺せ」は『臨済録』の引用だが、要するに禅はどんなものも絶対化せず、これで完成とはしない。常に未完なのだし、更なる一歩を進めよと迫るのである。『無門関』などにある「百尺竿頭、更に一歩を進む」とはその意味である。
 どうしても現状から一歩を踏み出さなくてはならないとすれば、マニュアル化は常に無意味である。それは心の死と言ってもいい。また「更なる一歩」は求めていても、それは必ずしも目標(あるいはマニフェスト)を設定して進むことではない。
 一歩を進めるためには必ずもう一方の足を地につけていかなくてはならない。これが『臨済録』に言う「途中に在りて家舎を離れず」だが、我々の更なる一歩は、いつだって最後の一歩かもしれず、どこに置くかは無心における直観で決めるのである。
 途中でありながら最後の一歩かもしれない。そうした思いが、日本人の死生観に与えた影響も多分にあるはずである。
 そして我々の更なる一歩は、単純に前進であったり回帰であったり、時には融合であったり分離であったりする。仏教も禅も、けっして原理主義にはならない。それどころか、とにかく常に「更なる一歩」を求めるために、変化こそが日常的なのである。車の頻繁なモデルチェンジもそのせいだろうか。融合、混淆、仮和合、その変化はさまざまに呼び得るだろうが、一言でいえばそれは豊かなる「空即是色」ではないだろうか。
 川端氏は「明恵伝」から絶妙な文章を引用している。ここに一部を再び引こう。
紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるものにあらず。また、色どれるにもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なしこの歌即ち是れ如来の真の形体なり。
 如来の真の形体は、無形でありながらどんな形にもなり得る。道元禅師の冒頭の歌も「本来の面目」と題されているが、それは無形であるがゆえに春夏秋冬でそれぞれ別な姿をとる。しかも変化しつづけながら一切の跡形を残さないのである。 
 日本人の中に基本ソフトのように入り込んだ「禅」を、何となく感じ取っていただけただろうか。再び単純化して申し上げれば、それは「無心」そのものの応化力と生産性、そして「更なる一歩」を求めるがゆえのアメ―バ的変化である。
 むろん、こうした志向性が受け容れられるためには、この国にそれと親和する土壌が本来あったことも忘れてはならない。四季の変化、「むすび(産霊)」の重視、また『古事記』『日本書記』などで最も多用された言葉が「なる」である。(丸山真男氏の指摘)ことも、すぐに思い浮かぶ。
 日本人は、おそらくこの土壌に片足を置き、もう片足を虚空に挙げながら、今も外来のさまざまな
文物を咀嚼し、アレンジし、融合しながら歩きつづけているのである。

 「禅の基本」(枻出版社)