うゐの奥山 その六拾二
おおブレネリ
五月五日、子供の日に、わが三春町では恒例の稚児行列が行なわれた。大正時代から続く伝統行事だが、今年も快晴に恵まれ、のどかに平和裡に圓成した。
稚児行列とは、幼な子たちを仏さまの子供とみなし、その健やかな成長を願って行なわれる。きらびやかな服装はおそらく平安貴族に倣ったものだろう。先頭を色とりどりの旗を持った「旗持ち」の子供たちが歩き、続いて張り子の白象が山車に乗せられて運ばれ、その後をで袴を着た奉行が稚児たちを引導する。母親や父親に手を引かれた稚児たちの頭には烏帽子や冠がキラキラ光っている。
毎年のこととはいえ稚児たちも毎年変わるから、前日から集まって衣装の着付け方やお遊戯の練習をする。今年は三歳から四歳、五歳という低年齢が多かったため、だっこした母親から離れない子がいたり、なかなか大変である。
当日も早くに集まり、沿道の人々に配る風船を膨らませ、あるいは甘茶の接待のため割烹着を着たおばさんたちも駆けつけてくれる。その頃、三春仏教和合会のおじさんたちは、トラックに乗って張り子の象を倉庫から出しにいくのだが、これがじつに立派な象なのである。
もともと象はインドの聖獣だが、お釈迦さまの母親の摩耶夫人は白象の夢を見てブッダを身籠ったとされる。だから稚児には白象がつきもの。三春町の象は戦争による二十年ちかい中断のあと、各寺院の和尚たちが托鉢によって資金を集め、指物大工を中心にした有志で作ってもらったらしい。平成になってからも、やはり有志で補修し、色も塗り直した。移動しながら象の腹の下で子供が太鼓を叩くのだが、象の土台はすべて青空と白い雲のデザインである。
籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人とはよく言ったもので、単に子供たちが着飾って歩くだけの行事に、じつに多くの人々の精魂が込められてきた。やはり子供たちにあっての未来だし、人はそのためならどんな努力も惜しまないということだろうか。
戦後に再開された稚児行列では、子供の参加が毎年百人を超えていた。最近はおおむね二十前後である。また毎年、象を牽く男性スタッフは高齢化し、それは即ち象の高齢化とも見える。
「いつか本物の象を呼ぼう」
長年行事を手伝ってくれたパン屋さんがそう言い、準備会で酒を飲むたびにその話がでる。サーカスに借りると幾らかかるとか、話はいつも出るのだが、どうも実現しそうにない。
もし本物の象が歩いたら、観衆は黒山になるかもしれないが、行列の主人公は象になってしまうだろう。なにより警察などの警備だらけになり、のどかさが失われてしまう。この行事の素晴らしさは、なにより無上の「のどかさ」だと私は思う。
どういうわけか私はここ何年も、着付けの済んだ稚児たちに銀白い鼻筋を入れる係を仰せつかってきた。稚児の鼻筋を通すことにかけてはもうベテランである。両親に伴われ、子供たちが椅子に坐った私の前に立つ。その眼は開かれていたり閉じられていたりさまざまだが、ずっと銀白い筋が入ると一気に香気に包まれるように思えるから不思議である。
みんなで藩校跡の明徳門下で記念撮影し、いよいよ歩きだす。いよいよといっても三歳児のスピードはあくまでのどかでだらだらしている。この緩慢なスピードこそ平和の徴ではないか。お寺に着いてお遊戯が終わる頃には鼻筋も消えているが、それもきっとブッダの無常の教えである。
東京新聞 2017年6月4日
|