うゐの奥山 その六拾八

 運慶展と六田さん



 すでに開催期間は終わってしまったが、上野の東京国立博物館で開かれていた運慶展は凄かった、内容もさることながらあの行列……。
 一度は講演のために上京した折、少し早めに行ってチケットを買ったのだが、「六十分待ち」の看板に怖れをなし、迷った挙げ句にとうとう諦めて上野動物園に行った。しかしお目当ての「シャンシャン」にも会えず、ゴリラのモモコも産後の大事な時期ということで出てこなかった。私は運慶展に並ばなかったことを悔みつつ、猛禽類やトラ、やる気のない眠そうなライオンなどを見て我慢したのだった。
 昨年十一月十八日、伊豆での六田知弘さんの写真展にちなみ、不慣れなギャラリートークをすることになっていた。じつは六田さんは今回の運慶展の図録写真を撮った中心人物であり、その意味でもギャラリートークのまえになんとか運慶展を見ておきたかった。たまたま十七日は予定がなかったので昼前に女房と車で出かけ、とうとう平成館の入り口に並んでしまった。今回は「五十分待ち」だったが、結果としては四十分ほどで入ることができや。どんなに旨いラーメンでも並ぶのは嫌、という私にすれば、まさに画期的な出来事であった。
 運慶作の無著・世親像の前で、私は釘付けになった。すべての像が、運慶の完成された技術と見事な心象描写を証明していたのは間違いないが、なかでも無著・世親という唯識兄弟から漂う包容するような空気は、完全に私を包み込んでしまった。息子の湛慶作とされる鹿や犬の像と共に、それは伊豆に向かう車中でも脳裏から消えなかった。
 夜九時に伊豆大仁の知半庵に着くと、六田さんが出迎えてくれた。庵主の粟屋信子さんは翌日の客席にする椅子を近所の幼稚園まで借りに行った由。粟屋さんの用意してくださったアンコウ鍋に六田さんが火を入れ、我々は粟屋さんの指示どおり先に鍋をつつきながら話しはじめた。粟屋さん合流後は午前二時すぎまで宴が続いた。
 六田さんはおととしの個展に言葉を寄せて以後のつきあいさが、その写真にはいたく刺激される。彼は被写体に向き合い、自分を虚しくして対象が映り込むのを待つという。そのためには「意識レベルを落とす」というのだが、なんだかまるで坐禅のようだ。
 モノを見ても聞いても、我々は自分の脳内に出来上っている複雑な地図のなかに瞬時にそのモノを位置づける。好き嫌いや価値判断も含め、それが何なのかわかった時点ですでに無数の思い込みが絡まっているのだ。瞬時に行なわれる時系列の配置を「排列」と呼び、物語への位置づけは「経歴」と呼ぶ。いずれも無著や世親による唯識学を経た考え方だが、そこでは無意識が二層に分けられ、自己本位の浅い無意識(末那識)と、人類共通の深い無意識(阿頼耶識)があるとされる。六田さんは「意識レベルを下げ」、末那識も超え、いわば阿頼耶識の状態で被写体に向き合おうというのだろう。彼の写真が、見たこともないものを見せてくれる気がするのは、たぶんそういうことだ。
 今回の知半庵での展示は、東日本大震災の被災地を歩いて撮りつづけたさまざまなモノたち。しかも背景から切り離され、すべてスケッチブックに載せて単独で撮られている。
 単独で見せられると、なぜか美しいいとさえ感じ、そのことに我々はたぶん戸惑う。浅いところで動きだした二つの価値観が、きっとせめぎ合うのだろう。しばらくすると今度は、築二百年という知半庵の部屋の中に置かれた状況が気になってくる。状況を省いて撮られた写真が、新たな状況に置かれるのだ。どんなに脱ぎ捨てようとしてもなくならない「状況」…、それが今回の展示のテーマだろうか。お堂から運び出された運慶の作品にもそれは感じたことだ。

                                  東京新聞  2018年1月14日