心に残る父のこと母のこと

 早いもの勝ち


  父が亡くなっておよそ二年半になる。命日は恰度お釈迦さまの涅槃会の二月十五日。奇特なことだ。
 父が暮らしていた同じ環境で暮らしているので、憶いだすことは多い。本堂や境内を歩いていても、お経を唱えていた姿や、草引きをしていた様子、犬との散歩の光景などがふっと甦ったりする。過去帳を開けば父の書いた字が溢れているから、思い出が環境に溶け込んでいる、と言ってもいいかもしれない。
 しかし先日、思いがけないことで父の存在が浮かび上がった。若い知人を招いて夕食を摂っていたとき、皿に幾つか残った料理を取ろうしたその若者が、「これ、いいですか」と訊いたので、思わず「早いもの勝ちだよ」と言ってしまったのである。それは父の口癖だった。
 決して自分で食べるものついて言うのではない。あくまで誰かが食べていいか迷っているようなときに、父は笑いながらそう言い、言われたほうも気がラクになって遠慮せずに食べた。
 父は四十六歳から糖尿病のための食事制限を受けていた。インスリンの注射も自分でしていたから、自分の適量についての知識は強かったと思う。そんな状況であれば尚更、食卓には父への気遣いが沁みだし、サラリと「早いもの勝ちだ」と言ってもらえることで、和やかな食卓が保たれたのだろう。
 しかし、じつは父にも食べ物にまつわる苦い思い出があった。これは父が兄からもう四十年も前に聞いたことで、伯父もすでに鬼籍に入っている。父が岩手県の山村からこの町に来てまもなかったというから、おそらく昭和十年か十一年か。
 たまたまお寺に珍しくバナナの頂き物があり、小学生だった父はそのうちの一本を「自分の分」として取り置いて学校に行ったらしい。そのことをすでに他寺で小僧をしていた兄にこっぴどく叱られた、というのだが、叱った本人の話だから間違いない。
 そうして思い返すと、父の「早いもの勝ち」は複雑な感情を伴っては甦る。もしかすると父は、その言葉を口にするたびに兄の叱責と自らの不徳とを思っただろうか。シベリアでの三年間の抑留を経験し、なおかつ相手にだけ「早いもの勝ち」と答える境涯をどんなふうに得たのだろうか。


                               「PHP」  2018年11月号