虫愛づる科学者



 昔から、格好いい方だと思ってきた。最初はテレビに出ていた白衣姿やその美貌の影響が大きかったかもしれない。「生命科学」という素敵な言葉も、中村先生の肩書きで初めて知ったような気がする。
 最初にお目にかかったのは二〇〇六年、京都で開催された国際生化学・分子生物学会議の市民向け公開講座だった。「生命(いのち)の不思議~禅の智慧からクローンまで~」というタイトルで、それぞれが講演し、その後公開対談をさせていただいた。禅の智慧といっても実際は仏教すべてに通じる考え方で、「全体と部分」について、「縁起」や「同期」などに触れながら話した記憶がある。
 先生の遺伝子をめぐる話も刺激的で、対談も楽しかったのだが、そのあと予期せぬことが起きた。聴衆の皆さんからの質問を受け付けたところ、話の内容に関係なく「死刑についてどう思いますか?
とある男性が訊いたのである。要するに人が大勢集まりそうま場所にやってきてはビラを配るような人だったため、対応のしようでは催しじたいが台無しになってしまう。主催者は慌ててスタッフを客席に差し向け、説得して退場してもらおうとした。
 しかし中村先生は慌てずマイクを取ってその客に向かい、誰も傷つかないような言い方で穏やかにその場を収めてくださった。その後京都の街を一緒に歩き、喫茶店で会話しながら、私は中村先生の優しさと格好よさにあらためて感じ入っていた。
 先生の柔らかな感性と深い知性は多くの人々との対談にそのまま顕れている。過去のお互いの総和以上の何かが、必ず産みだされているのである。禅には「巌下に風生じ、虎、兒を弄す」などの表現があり、人が相手の刺激で活性化する場面が讃えられる。いわばそんなふうに、中村先生はあらゆる分野の人々を刺激し、また活性化してくださるのだろう。
 生命誌全体を見据え、しかも「今」から眼を離すことがないから、当然この時代のなりゆきには憂いをもたれている。高槻のJT生命誌研究館は素晴らしい施設だが、外にも積極的に出ていかれるようだ。
 先日、生命尊重全国研修会のシンポジウム記録を読む機会があった。これは安易な中絶に反対し、円ブリオ基金で誕生や養育を支援しようという団体だが、そこでも中村先生の発言がひときわ頭に残った。
「今、人間の遺伝子は全部調べられるので、遺伝子に欠陥の入っていない人はただの一人もいません。もし欠陥のある人は生まれてはいけないと言うなら、一人も生まれてはいけないことになる。だから人間を機械と比べてはいけない。機械は欠陥があるものは工場から出せない。生きものは、欠陥のないものはないという前提ではないと存在し得ないのです」。これは新型出生前診断(NIPT)の安易な活用によって、優生思想が跋扈するのを警戒する発言であると同時に、AIの発達に対峙する人間への讃歌とも思えた。
 多様性や共生を唱える人は多いけれど、中村先生のそれは全ての生き物の欠陥をも包み込む「慈悲」に近いものかもしれない。
 一昨年の冬にはご自身が監修された映画『水と風と生き物と』を引っ提げ、放射能被害に喘ぐ福島県に起こしくださった。シンポジウムにご一緒させていただいたのだが、それは政治批判でも情緒的な同情でもなく、自然のなかで生きる福島県民にとって、あれほど本質的で科学的な励ましがあっただろうか。
 仏教では「智慧」と「慈悲」が別々には成就しないと考えるのだが、中村先生においてそれは同時に実現している。因果律中心の科学が方法として万全とは思えないが、不思議を愛し、よく笑う「虫愛づる姫君」の科学だけは今もなお格好いい。


『中村桂子コレクション』第4巻 「月報」