お墓の変化

  先日、岩手県の一関市へ出かけてきた。祥雲寺さんが始めた樹木葬墓地が二十周年を迎えるため、記念講演を頼まれたのである。
 思えば墓地は、時代によってさまざまに変遷してきた。今は「○○家之墓」という棹石(さおいし)法名碑(ほうみようひ)という形が一般的だが、それが現れたのは昭和四十年代である。それまでは夫婦で一棹、場合によっては子どもでも一人一棹が使われ、なかには屋根を掛けたお墓まであった。
 個人の戒名を墓石に刻んだお墓が出現したのは元禄頃のようだが、時代を追って石屋さんの技術は進んだものの石の採掘が次第に難しくなり、加えて価格の問題もあって今では外国産の石が多くを占める。中国、インド、あるいはスウェーデン産なども見かけるが、外国の石なら採っていいという状況がいつまでも続くはずはない。
 そんな時代の変化をいち早く見据え、火葬骨を土中に撒いてその上に木を植える埋葬法(樹木葬)を千坂嵃峰(ちさかげんぽう)師が始めた。それまでにも例えば戦国武将の片倉小十郎は、墓石の代わりに杉の木を植えさせた。あるいは中国の呉の国には梓を植えて柩を作れと命じた伍子胥(ごししよ)がいた。しかし千坂師の場合は里山の保全も考え、墓標として植える木はそこに自生する種類に限定した。つまり樹木葬墓地には、久保川という川の上中流域を里山として再生保全するという深い意図があったのである。今では知勝院という別な宗教法人を立ち上げ、宮沢賢治に因んで「久保川イーハトーブ自然再生協議会」という組織も作って活動を続け、ついに「にほんの里百選」にも選ばれたのである。
 お墓を帰るべき自然の一部と見るこうした見方は、樹木葬墓地に限らず重要になってくるだろう。うちの墓地では、「そこに降った雨はそこに沁み込む」ようなお墓の作り方をお願いし、草は抜かずに高刈りにし、柔らかな土の草原(くさはら)にしましょうと檀家さんに呼びかけている。草むしりという長年の律儀な習慣を変えるのは難しいけれど、要はそれが億劫になってコンクリートなどで土を塞ぐことだけは避けたい。なにより近くの桜が枯れるし豪雨の被害も大きくなる。最近の水害の多発は、雨の激しさばかりでなくやはり土との関係悪化が根本にある。植物の生えた柔らかで豊穣な大地の一部を、墓地も担うべきであり、それこそ帰るべき自然ではないだろうか。
 そう考えればいわゆる区画墓地にだって樹木葬的なやり方が可能な気がしてくる。墓標も、今後は外国の石に頼るだけでなく、皇室のお印的な木や花も面白いのではないか。何かが育つ場所なら定期的に行ってみたくもなる。石屋さんたちもぜひ「お墓屋さん」に変身し、積極果敢に今後の新たなお墓の形に挑戦してほしい。未曾有の多死時代、「墓じまい」してる場合じゃないでしょう?
 ただし区画墓地で新たな挑戦をする場合、あくまでも墓地管理者に相談してくださいね。当然ながら、いろんな考え方の人がいますから。

                               福島民報  2019年6月9日