うゐの奥山 その八拾弐

 敷地内引越し

  このところ、福聚寺は引越しで慌ただしい。そんなことを電話で答えたら、「えっ、お寺が引越しですか」と驚かれた。なるほど、通常は引越しといえば、別な場所に移り住むこと。まさかお寺が引越すとは誰も思わないだろう。実際、私が申し上げたかったのも、仮住まいしている文殊堂という建物から改修成った庫裡への引越しで、同一敷地内、同一番地間での什物の移動のことである。
 ただじつは大学生の頃、住んでいた東京の港区で、一夜にしてお寺がなくなってしまった場面に遭遇したことがある。確かに前日には厳然としてそこにあり、私も夕方通りかかって本堂の甍を眺めた記憶がある。しかし翌朝そこは礎石だけ残して空き地になっており、近所の人々が「いったいどこへ消えたのか」と、口々に言い合っていた。ヘリコプターなら何機で持ち上がるか、などと話し合う人々の横で、そんな爆音は聞いていないと、早起きのお婆さんが訴えていたものだ。ちょっと強烈すぎる話を挿入してしまい、すげなく本筋に戻るのも恐縮なのだが、今日のメインの話題は私のところの引越しなので頭を切り換えていただき、その寺がどうしてどのように消えたのかはじっくり別な機会に考えてみていただきたい。
 さて敷地内引越しだが、これがそう簡単には行かないのだ。このところ、と申し上げたが、引越し屋さんに一日は手伝ってもらい、おもだった家具類は移動したのだが細かいものがたくさん残っている。毎日片道百歩以上の距離を何往復もして衣類や本やなんだか分からない古いものまで運ぶのである。そんななか、電話は設置してあったもののインターホンが今日はまだ文殊堂で鳴った。庫裡のほうに来てほしいと、言うのが間に合わないと、本堂を通過して約八十歩ほど歩かなくてはならない。だいいち新しい庫裡の玄関周りは下駄箱も完成していないため、まだ大工さんの道具置き場だ。いったいどこから入ればいいのか分からない、という状況だったため、やっと今日、郵便受けや新聞入れも新しいインターホンの傍に移動し、文殊堂の玄関には「庫裡のほうへ」と案内する張り紙をしたのである。
 そんな不備な状況のなか、私が足裏をこわばらせながら何度も本堂を通過していると、またピンポンが鳴った。出てみると、相談があって神奈川県から兄妹でやってきた檀家さんだった。
 まだ誰も坐ったことのない客間に通し、火も入っていない火鉢の前で話を聞き、更には墓地まで同道しながら話を伺ったのだが、要はお墓の跡継ぎがおらず、二人の娘たちも長男に嫁いでいるため、今後お墓をどうすべきか迷い、考えあぐねて訪ねてきたというのである。
 ご先祖さまを粗末にはしたくないし、両親が生まれた三春町との縁も大切にしたいと仰るから、私は迷わず敷地内引越しを提案した。
 私の代になってからお寺には永代供養墓の「こう(氵に幸)溟(めい)宮(きゆう)」を造った。お骨と位牌をセットで祀り、少なくとも月に一度は朝課の際にも回向する。今後のお墓の管理が不安なのは近所に求めても同じだし、それなら遠くとも自分の出自に関わる場所ならたまに訪ねることで何か発見があるかもしれない。同じ敷地内だから改葬許可証も要らない。そんな話をしたところ、早速二人とも敷地内引越しを気に入ってくださったのである。
 石屋さんの到着を待つあいだ、私は失礼して引越作業を続けさせてもらったのだが、二人は茶の間で積もる話をしながら時には涙ぐんだりしていた。「仲良きことは美しきかな」武者小路実篤先生の色紙なども憶いだし、私は荷物を運びながら咲いたばかりの庭先の牡丹を眺めた。そういえばこの牡丹も工事のために一度転地され、今年別な場所に植えられた。近所への引越しは牡丹にも悪くなさそうだ。
 あ、またピンポン。PCがまだ文殊堂にあるのが最大のネックだ。
 


                               東京新聞  2019年6月16日