烏賊と原発

 私は六十三歳だが、近ごろ驚くほど体質が変わったような気がする。何より好きじゃなかった烏賊が食べられるようになり、いやむしろ旨いとさえ思えるようになった。どこか深いところで宿年の拘りが解けたのだろうか。これも我が身が「自然」ゆえの変化だと感じる。
 一方で「人工」のものには作られた意図の明確さゆえに変化しようのない部分が必ずある。たとえば企業の利潤を追求する存在であることも、変わりようのない原理ではないだろうか。
 東京電力が津波の「長期評価」を知りながら対策をとらず、責任者が強制起訴されたが、東京地裁の永渕裁判長は無罪を言い渡した。国の機関が発表していた長期評価の信頼性を、実際そのとおりになったにもかかわらず、「合理的な予測とは言えない」と否定したのである。
 「山下調書」でもわかるように、長期評価のとおりに防波堤対策を打った場合、数百億円はかかり、中越地震での柏崎刈羽原発運転停止に加え、更に福島第一原発まで工事のため停止すれば損失が増えすぎる。損を減らし、利潤を増やすのが企業だとばかり、リスクを「合理的でない」とやり過ごしてきた東電を、許す判決だったのである。
 『文藝春秋』9月号には、東電の利益優先で過失を隠蔽する体質がまた暴露されている。炉心の専門家として長くフクイチに勤務していた木村俊雄氏が、すでに津波以前、地震直後に炉心の冷却機能が失われていたことを告発していたのである(「福島第一原発は津波の前に壊れた」)。炉心を冷やす冷却水の流量がグラフで示されているが、この数値も当初は隠されていたという。また同文中、木村氏は東電が「都合の悪いことは隠す体質」であることを告げ、自分も含めてこれまで隠蔽やデータ改竄に関わってきたことを正直に認めている。
「原発はそもそも無理がある」と木村氏も書いているが、核廃棄物の最終処分場も決まらないし、各原発に保管されている核燃料は再利用分も含めるとなんと二万トンを超える。福島県内の汚染物質の最終貯蔵地も勿論決まらないし、毎日百トン前後のペースで増え続ける汚染水など今や国際的な注目を集めてしまった。これほどの負荷をこの国に与え続ける存在は、むろんコントロールはできていないし、冷静に総合的に計算すれば損得勘定さえ合わないのではないだろうか。
 営利企業にリスク管理を丸投げした国の責任は大きいが、高浜での奇妙なお金の動きなど、欲望を燃やす発電にさえ見える。やはりこの地震国は原子力発電そのものから身を引くべきなのだと思う。「おもてなし」の国というのも、原発を想うと「裏ばかり」の意味かと思えてしまう。
 六十年嫌いだった烏賊が好きになったのは「合理的予測」などなかった話だが、そういえば一九六三年に日本で初めて原子力発電が行なわれてからまもなく六十年になる。烏賊とは逆に、突然嫌気がさしても全くおかしくない。


                               福島民報  2019年10月6日