悟りと未悟


 珍しいテーマの本である。いわゆる「悟り」についての学問的研究書。なるほど仏教はインドの昔から、いわゆる覚醒体験を重視してきた(Buddh『目覚める』の過去分詞)。特に私の所属する臨済宗はその念入りな承認(印可)によって法を受け継いできた。ならばその体験には一定の普遍性があるはず。大竹晋氏はそれを「悟り学」として研究されたのである。
 少ない道場体験で申し上げるのも気が引けるが、もともとそれは言葉の届かない領域での体験だ。主に坐禅という身体技術と、公案という問いに一体化することで実現される。いわば覚知する主体とされる対象が「一つになる」ことで、これまで「自己」と思い込んでいたものが溶解するのだろう。多くは歓びを伴い、著者が五段階に分析したように体験は深まっていく。
 しかしそういう体験を言語化する場合は、どうしても個々の日常的な信念や思考の枠組みに「戻って」表現されることになる。言葉が存在しえない世界の表現なのだし当然だろう。著者は「禅で悟りまたは見性となづけられる経験は、他の宗教にも、たぶんすべての真摯な宗教にも起こる」だろうと言う。私もそう思う。そんな観点で読み進めていくと、私には中国や日本の前近代の禅僧たちは無論だが、禅以外の「体験記」がとりわけ面白かった。本書は真言宗や浄土宗、浄土真宗や日蓮宗、キリスト教の「悟り」まで紹介してくれる。
 たとえば真宗の江部鴨村(えべおうそん)などの場合、子供のころから常にまじめに拝んできた阿弥陀仏だが、「どうもなじめなかった。遠かった」という。しかし「あらゆる声が無碍光如来(むげこうにょらい)(阿弥陀仏)を讃嘆するが如くに聞えた」ある体験以後、「おやと思うと」それまで「前方にながめていた仏が消えて」「仏は私のうしろに立っていられたのだ。このうしろの仏が私を摂取していられたのだ」と思ったらしい。江部はそのとき感じた「天地人生に対する一種温暖の感じ」が、生涯にわたる活動を支えたというが、いかにも浄土宗らしい「悟り」に思える。
 しかし著者も指摘するように、それならオウム真理教での「悟り」も深浅こそ違えありえることになる。五体投地をあれだけ繰り返せば間違いなく「自他亡失体験」もすることだろうし、そこに尊師の教えが燦然と輝く仕組みである。
 いみじくも河上肇の体験に出てくるが、「悟り」への階段一種の「定型発達」と捉えられる以上、その達成には大いなる歓びと過剰なほどの自信湧出が伴う。河上は「如何にしても自己の偉大を信ぜざるを得ざるなり」と書いているが、彼は空中浮揚の体験すら記し、そうした体験によって湧き起こる増上慢、あるいは捨てることのできない自我に苦悶する。問題はそこなのだと思う。
 いま、「定型発達」と申し上げたのは、師匠が瞬時に弟子の見性を見抜くからである。もしも「完成」というものが想定されるなら、誰でも有頂天にならずにはいられないだろう。「手の舞ひ、足の踏む所を知らず」とはそのことである。
 しかし、最も深い「悟り体験」を経れば、本当に言語から完全に逃れることは可能なのだろうか。井筒俊彦氏は『意識と本質』において最深層の無意識である阿頼耶識を「言語阿頼耶識」と名付け、その払拭の可能性を疑っている。
 おそらくそうなのだと思う。私の師匠である平田精耕老師も、「日常生活での悟りなんて、そんなもんありゃせんわ」とよく仰っていた。少なくとも、定期発達の最終形でも通用しない現実はいくらでも押し寄せ、その都度新たな問題に向き合っていくのが人生なのではないか。
 この本は、貴重な資料も多いし、さまざまな求道者の悟りが追体験できる。またそうした体験に批判的な立場からの意見も冷静に紹介してくれる。現代の情報社会での「悟りにくさ」の指摘も鋭いと思う。広さが深さを導く良書と言える。
 ただ一つだけ不満を言わせてもらえば、元は本人も発言にせよ、「悟り」の「完成」や「徹底」という高揚した言説に共振しすぎではないだろうか。もしも完成があるならそれは閉じられた世界のことだろう。そのことを察してかあるいは増上慢を怖れてのことかは知らないが、日本からも多くの修行者を集めた天目山の中峰明本(一二六三~一三二三)は、一生自分は「未悟」だと言い続けた。そういう「悟り」も私はあると思うのだが、どうだろう。




『「悟り体験」を読む大乗仏教で覚醒した人々』大竹晋著(新潮選書)書評