自「令和」


 新しい元号が「令和」に決まった。「平成」のときは、昭和天皇のご崩御直後の自粛ムードのなかで、元号があれこれ詮議されることもなかった気がするが、今回は些か違った。
 まず決定までの細かい時間割が公表され、それが逐一報道されたことで、却って通過儀礼のように見え、決定者は誰なのかも含めて政治的な意図を感じた人も多かったに違いない。加えて、出典が国書であることへの安倍総理らの拘りが際立った。元号が漢字二文字である以上、これはかなり無理がある。当時の人々が学んだ中国の『文選』こそ典拠だと、すぐさまネット上に中国人が書き込んだが、『万葉集』の漢文表現が遡れば中国文献に行き着くのはいわば当然である。
 そして「令和」の「令」そのものへの違和感もかなり聞かれた。この文字の第一の意味は「おきて」、いわば命令の令だから、漢文ならば「和せしむ」と訓むほうが普通である。文字を見た瞬間、私などは平和まで法「令」で規制されるのではないかと危惧した。
 しかし我々の今後の「文化目標」(国文学者中西進氏の言葉)として新たな元号が決まったからには、自分たちで佳いイメージに育てていかなくてはならない。政府の言うように「令」を「ご令室」などの美称と捉えるのもいいが、むしろ自ら強く「和」せしむ心と常に「自」を補って捉えてはどうだろう。中西氏が想起するという「和を以て貴しとせよ」も思えば十七条憲法という国家自身の努力目標である。
 昭和で叶わなかった平和が再び目指されるのだし、個々人の中により強い法令の如き意志が必要になる。元明天皇が名付けた「大和」朝廷でも、宿年の怨親を越えた「和」こそが祈られていた。そう思えば「令和」は今の時代にふさわしい切実な文化目標ではないか。
 強く意志して怨親を越えるべき相手は、ほら、すぐそこにいる。

 

                              仏教タイムズ 2019年4月25日号