うゐの奥山 その八拾壱

 半僧坊

 三月の初め、浜松市奥山の方広寺に出かけてきた。道場の先輩である安永祖堂老師の晋山式(住職就任のお披露目の儀式)に随喜するためである。安永老師は天龍僧堂を出たあと、国際禅堂の師家あるいは花園大学の教授として後進の指導を担ってきた。そこへ大本山方広寺から拝請があり、承諾して諸役を辞任し、今回の祝儀となった次第。天気にも恵まれ、早咲きの桜に彩られてじつに晴れやかな一日だった。
 ところでこの方広寺には、ちょっと変わったお方が祀られている。半僧坊大権現というのだが、何だかお分かりだろうか。
 今や鎌倉の建長寺や野火止の平林寺などにも勧請され、ご存じの方も多いと思うが、もともとはこの方広寺の開山さまである無文元選禅師(一三二三~一三九〇年)との因縁にまで遡る。後醍醐天皇の皇子であった禅師は、父君が崩御された翌年に京都建仁寺に入り、さらに元王朝末期の中国に渡って奥義を究めたが、船で博多に戻る途中に大嵐に遭う。強い風雨に帆柱も倒れんとしたそのとき、法衣と袈裟を身につけた鼻の高い「異人」が現れ、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に博多まで導いたとされるのだが、それがそうも半僧坊らしい。
 その後禅師が奥山六郎次郎朝藤の招きで方広寺の開山になると、そこへ再び現れて弟子にしてほしいと請う。「素制が分からぬ」という禅師に「私は半僧です。人からも左様に呼ばれています」と答えたらしく、その後は採薪・給水など、あらゆる身のまわりの世話をして禅師が亡くなるまで仕え、禅師遷化の後は「私はこの山を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」と言い残して姿を消したとされる。
 その後の方広寺ではたしかに護られているとしか思えない不思議な出来事が続き、明治十四(一八八一)年の山林火災でも開山禅師の関連施設や半僧坊真殿だけは焼け残ったため、海難除けや火伏せをはじめ、あらゆる功徳をもたらす鎮守として各地に勧請されていったのである。
 さて、自ら「半僧」と名乗ったという半僧坊だが、いったい何者なのだろう。建長寺には、半僧坊のお供だという烏天狗の像が何体も立っているが、つまり半僧坊は「天狗」だと示唆しているのだろうか。あるいは「猿田彦」という神の権化だという見方もある。
 各所に残るその特徴を書きだすと、「長身」「白髪」「赤ら顔」「鼻が高い」「袈裟・法衣」などだが、素直に読めば、これは当時中国の禅寺で修行していた西洋人僧侶ではないだろうか。十三世紀の中国には、すでに中近東や欧州からも仏法を求める人々が来ていた。
 異人という言い方は、つい最近までは外国人に対して使った。「赤い靴」を履いた女の子じゃなくとも、である。それは「異国の人」の短縮形だと、言い訳するかもしれないが、じつは自分たちと相当違う容貌の人々を、同じ「人」とは思えなかったのだろう。おそらくそういう「異人」と思われた存在を、すでに室町時代に同じ修行者として受け入れた寺が方広寺なのだ。
 後醍醐天皇んお皇子であった禅文禅師は、父君が追討を命じた足利尊氏が、その後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺を建立したことをご存じだったはずである。夢窓国師の怨親平等の思想も知っていただろう。
 それゆえが、方広寺にはかつてハンセン病患者のための病院施設もあった。山号が深奥山というだけあって、懐が限りなく深いのだ。
 安永老師は大学時代ロックに打ち込み、エリック・クランプトンのギターもコピーしていたらしいが、出家後は東西霊性交渉にも熱心で、キリスト教徒との対話も重ねている。どう考えても、半僧坊の方広寺には安永老師こそ相応しい。鼻も高い、目の色の違う弟子もまもなく列を成すに違いない。


                               東京新聞  2019年5月5日