お墓と「治山」「治水」
人は誰でも死ねば墓地に埋葬される。法律ではそう規定されるのだが、このところその「墓地」の輪郭が緩んできたのを感じる。海や山や宇宙にまで拡がると同時に、都市部ではロッカー型の仏壇のような施設も黙認されている。
こうした墓地の変化はいつの時代にもあったことだが、ここでは主に、行政が関係する現状の墓地の問題点などについて考えてみたい。
まず何より墓地法の改正が求められるのは、現在の墓地が殆んど昭和二十年代に登記されたままだということである。しかも登記法は使用権利者の連名登記。たとえば二百区画の墓地があれば、二百名の名前が列記され、押印されたのである。
そのことじたいは普段なんの支障も来さないのだが、これは東日本大震災の後には大問題になった。つまり、津波に墓石まで攫われ、危険性が露になった墓地も、登記を取り消さないと移転できないのだ。
墓地を移転するためには、登記した本人の子孫を捜し当て、子供がいれば子供全員、孫の代になっていれば孫全員の記名押印が必要になる。なかには消息が掴めなかった海外に暮らす孫もいたりで、これは殆んど達成不可能なのである。
墓地法を改正し、宗教法人管理の墓地ならば代表役員による記名押印で良しとすべきではないだろうか。また行政の管理する墓地の場合は、せいぜい時の区長および市町村長の代表印で移転なども認めてほしいと思う。
そしてもう一つ重要と思えるのは、墓地造成や補修工事などにおける自然破壊への配慮である。
もともと墓石を切り出す作業じたい、山を切り崩すという自然破壊を伴う。それゆえ国内では多くの山で採石ができなくなり、いきおい外国産の石が増えた。うちの墓地でも中国、インド、スウェーデンなど、多彩な石が使われている。材料もそうだが中国などは技術も廉価なため、最近ではパック商品のようにすでに成形や彫刻まで施された石が輸入されてくる。日本の石屋さんがすることは、ただコンクリートなどを使っての積み木作業のようなものだ。そうこうするうちに、石屋さんの技術はみるみる劣化してしまったのである。
加えて地震の多い昨今は、とにかく基礎をコンクリートで固めようとする。それが頑丈と思っているらしく、放っておくとコンクリートと石だけのお墓ばかりできあがってしまうのである。
これがどういう事態を招くかというと、台風十九号などの爪痕を検証すれば明らかだ。
降った雨が上の地面や土手に沁み込み、土手の下へ抜けようとする。ところがそこにはコンクリートで固められたお墓があり、水が土手から抜けていかないのだ。その結果土手は鬱血したように水を蓄え、やがて崩れ落ちる。そういうことが多くの墓地で起こったのである。
豪雨が増えてきている現在、守るべきは自分の墓地区画ではなく、山全体なのだと改めて認識していただきたい。
ちなみにうちのお寺では、ここ数年ほど墓地の改修に取り組んできた。まずはあちこちに敷設してあったU字溝に穴を開け、流れる水の多くが地下に沁み込むようにした。
それまで墓地のあちこちの桜の下枝が枯れつつあったのだが、U字溝の下を通っている根に水や空気が行きわたるようになって復活した。無数の無用なU字溝から、水は小さな川に流れ込む。その量が増えすぎたことが、近ごろ洪水が多発する主因ではないだろうか。
そして檀家さんにも、ここ数年「お墓に草を生やしましょう」と訴えてきた。長年「草一本生えていない」のを美と感じてきた日本人だから、この意識変革はそう簡単ではない。しかし堅くなりすぎた土が水を吸わないことを諒解した檀家さんから協力が始まった。「土壌改良中。草を生やしています。 寺」というポップのようなものを貸し出したのも効果的だったのかもしれない。生えた草を抜かずに髙刈りしてくださる家が増え、苔の生えたお墓も増えてきた。大地には雨などが地下深く沁み込むための水脈が必ずあるはずだが、降った雨がスムーズにそこに抜けていく状況で生えるのが好気性の苔なのである。
こうして墓地を治山の観点で整備しつづけるうちに、木々は元気になって花も多くなり、吹く風も格段に気持ちよくなった。以前からの墓地の環境劣化こそ、海や山、宇宙などへの埋葬を増やす原因ではないかと思う。これらは「私くらいいいだろう」というワガママな選択肢に過ぎず、国民すべてがすれば明らかに公害である。
お墓の素材も、すでに石に拘る時代ではなくなっている。樹木葬もいいが、石屋がお墓屋に生まれ変わり、木材やガラス、鉄など、何でも使ってみてはどうだろう。「墓じまい」の前に、することはたくさんあるはずである。
月刊「地方会議人」」 2020年8月号