観音さまとお地蔵さんの日本仏教
ご承知のように、日本にはいろいろな仏教宗派がある。一九三九年に「宗教団体法」が成立したが、それまでに「伝統仏教」と見做されていたのがいわゆる「十三宗五十六派」である。それぞれの特徴や違いについてはこの本の中で学んでいただくとして、ここではどの宗派にも共通する日本仏教の特徴について考えてみたい。
「同じお釈迦さまの教えなのにどうしてそんなに分かれたの?」
これは非常によく受ける質問である。私は通常次のように答える。べつに喧嘩して分かれたのではなく(そういう場合も稀にあるが)、あまりに難解な経典が膨大にあるため、中心をどこに置くか、どこから齧り付くか、という観点の違いで分かれたと思ってほしい、と。スイカも丸ごとは食べられないから、食べやすい切り口をそれぞれが作ってみた、そう考えてみてはどうだろう。とにかくどこからでもいいから食べればその旨さがわかるはずだし、食べないといずれは腐ってしまうだけだ。
各お寺には、それぞれの宗派や由緒に応じた本尊さまや祖師像が祀られている。たとえば真言宗なら大日如来か不動明王がご本尊、境内には弘法大師像が祀られ、浄土宗や浄土真宗の本尊さまは阿弥陀如来、我が臨済宗や曹洞宗、黄檗宗では殆んどが釈迦如来と達磨大師像を祀る、といった具合である。
他にも薬師如来や弥勒菩薩、観音菩薩や地蔵菩薩など、本尊候補は大勢いるが、以上はみな言わばお釈迦さまという巨大なスイカのごく一部を象徴している。つまりそのお寺が示す仏教の切り口そのものなのだ。まずはご縁を感じ、そこから食べ始めるのが宜しかろう。
ところで余所のお寺に行ったり巡ったりしてみると、不思議なことに気づくはずである。それは、たとえどんな宗派でも、大抵のお寺にはお地蔵さんが並び、ご本尊ではないにしても観音さまもかなりの確率で祀られていることである。これはどうしたことだろう。
同じブッダが創唱した教えであることは確かだが、仏教は伝播した土地の人々に受け容れられる過程でその風土に馴染むよう変化した。たとえばインドではヒンドゥー教の神々(十一面観音、弁財天、大黒天など)をコンバートして仏教内部に取り込み、中国では道教に馴染んで禅や浄土教を生み、といった具合だが、日本ではどんな変化が起きたのだろう。
朝鮮半島から日本に仏教が伝わった頃の状況として、なにより忘れてならないのは疫病(当時は天然痘やマラリアなど)の流行と、地震、噴火などの自然災害だろうと思う。たとえば蘇我氏と物部氏の仏教受容を巡る争いにも、痘瘡(天然痘)が大きく介在した。欽明天皇の許しを得た蘇我稲目は自宅内に仏像を祀ったが、しばらくすると国中に疫病が流行した。すると、仏像なんか祀るからだと物部尾輿は主張し、稲目は仕方なく仏像を難波の堀江に捨てる。その後尾輿の息子守屋もまた仏像を捨てたところ、同じく疫病に罹り、あろうことか天皇までが疫病に倒れたのである。
現状のコロナ禍でも想像がつくだろうが、こんな時なにより大切なのは、「新しい生活」、状況の変化に応じた生活や考え方の変化ではないだろうか。三十三(無限)に身を変える観音さまこそ、非常時を導く最上の仏さまだったのである。
むろん当時は、疫病の原因もわからず、怨霊の祟りや神仏の罰かと思っていた時代。大物主神やスクナビコナが医神として崇められ、薬師如来への信仰も集まった。
しかし決定的だったのは、この国が噴火や地震、津波を繰り返し起こす「火山列島」だったことだろう。今でいえば鳥取県の大山や熊本の阿蘇山の大噴火をはじめ、仏教流入後にも天応元年(781)や延暦年間(800~802)、さらには貞観六年(864)にも富士山が噴火する。しかもその五年後(貞観11年)には超巨大地震として知られる貞観地震が起こり、震源地に近い東日本一帯が津波に襲われた。当時の市中にはすでに飢饉や疫病が蔓延していたのだから堪らない。8世紀には興福寺に施薬院・悲田院が設置され、光明皇后も同様の施設を作って救済に努めたが、人々の日々の苦悩には到底手が届かなかったはずである。
このような自然災害や疫病の最大の特徴は、予測がつかないこと。そんな脅威はおそらくこの国の人々を長年苦しめてきたはずである。
身内の不慮の死や、自宅の倒壊、焼失、自身の発病、あるいは洪水被害、そんな事態がしょっちゅう起こるこの国では、無限に身を変え、あらゆる変化に応じられる観音さまに、いつしか注目が集まったのだろう。当初は阿弥陀仏の脇侍として登場したわけだが、やがて自分たちに直接手が届く救い主として人気を高めていったに違いない。
宗派に関係なく祀られるもう一人の方がお地蔵さまである。
最近では、元々イランの地母神ではないかとも言われるが、直接には胎蔵界曼荼羅に有髪の菩薩型で登場し、その後僧形の菩薩として中国、朝鮮半島を経由して将来された。発祥地や経由地では今や希少な存在だが、日本では雨後の筍のように増えてしまった。いったいなにゆえ、日本ではこんなに増殖したのだろう。
本来、大地の生産性の象徴であった地蔵菩薩は、それだけでも農業国民には喜ばれたはずだが、やがて人気に乗じるように「心の生産性」の象徴としても仰がれるようになる。日本人は増殖力そのものを「ケ」と呼び、「木」「毛」「気」など自然に増えるものの呼び名に使ったが、その能力が枯れることを「ケ枯れ=穢れ」と呼んだ。
地蔵は「ケ」の象徴として、寺の境内だけでなく「シマ」(域内)と「タビ」(域外)の境などにも置かれた。これは道祖神のような守り神的役目はあるにしても、なにより常識と非常識の境こそ心が最も活性化すると考えられたからである。
農業は天候に大きく左右されるが、それこそ前例に囚われず、過去に立てた目標や方針に縛られず、いま活溌に心を働かせて対処しなくてはならない。そしてそれこそお地蔵さんの教えなのである。
むろんこのことは、火山列島での被災から立ち上がる際にも有効だった。全く同じことは二度と起こらない。その都度心をはたらかせて対処するしかないのである。
観音さまのように自在に変化し、お地蔵さまのように活溌に心をはたらかす。これこそ十三宗すべての日本仏教が目指す心の在り方になっていったのではないだろうか。
身分的にはお二人とも如来さまでなく菩薩だし、どこかの宗派で独占的に優遇しているわけでもない。いわばスポンサーなしの国民人気に支えられている大衆芸人のようなものだ。初めのスイカの喩えでいえば、お二人はどのような切り口でも必要になる包丁と種取り用の爪楊枝のようなものだろうか。
さぁ、包丁で切って楊枝で種を取り、ガブリと食いついてみよう。
え? 種も取らずにジューサーにかけて飲む? それは仏教は仏教でも日本の仏教ではないので、今回は反則とします。
「日本の仏教と十三宗派」