災厄と心の自由

 ここ十年以上、日本人は久しく忘れいた災厄に集中的に見舞われている気がする。東日本大震災という津波を伴う大地震、噴火、山火事、竜巻、台風や線状降水帯による大雨被害、また海では海水温の上昇と乱獲による海産物枯渇の危機が叫ばれ、地上では新型コロナウイルスがまるで草刈り機のように人命を薙ぎ倒していく。 
 自然、あるいは環境の問題、と言えば他人事のようだが、人間活動の規模がそれらに直結するほど大きくなってしまったことをまずは自覚すべきだろう。CO2を出しているのも、津波地区に原発を造ったのも、森林伐採のための大型重機を開発したのも、我々なのだ。
 禅語「南山に鼓を打てば北山に舞う」とは、本来は師弟などが離れていても一心同体であることを意味する言葉だが、この際は人間活動があらゆる環境に連動している事態と見ることも可能だろう。我々の活動は思わぬ場所や形で環境を変化させ、また変化した環境が今度は更に人間を変化させるのである。
 そう考えれば、もはや天災と人災も簡単には区別できない。あらゆる災厄には人為が関わっているからこそ、「SDGs(持続可能な開発目標)」のような考え方も出て来たのだろう。災厄の予防的観点から見ればそれは文句なく正しいし、どんどん進めるべきだと思う。しかし予防的には正しくとも、実際に災難に遭ってしまった場合はどうなのだろうか。
 すべてを人災と見る見方は、必ずや犯人捜しに行き着く。たとえば津波で子供を失った親も、学校の先生の判断を責めたり、あるいは迎えに行けなかった自分を過度に責めてみたり、いずれにせよ犯人捜しにこだわるかぎり暗く不自由な時間を過ごすことになる。実際は無数の原因が複雑に絡み合ったカオス。カオスのことを「自然」と呼ぶ東洋も、「神のみわざ」見做す西洋も、結局はそう思えて初めて心の安寧を得るのではないか。 
 つまり予防的にはすべて人災と思って我が身を省みるべきだが、起こってしまった災厄についてはぎりぎりのところで「天命」と思うことで人は心の自由を取り戻す。そのような二段構えの対処を、我々は今後心がける必要があるのではないだろうか。
 手許にお守りや御札などを持っている方は、そこに込められた祈りについて考えてみてほしい。それは貴方だけが交通事故に遭わず、商売が繁盛し、難病も快癒するという利己的な祈りなのだろうか。たとえば大地震が来て、助かった人と助からなかった人がいれば、その差はお守りや御札の効き目の違いと思っていいのだろうか。人々はそんな功徳を競うために厄除けの儀式を受け、グッズを求めるのだろうか。少なくとも祈る側の僧侶から見れば、それは違う。
 天命とはおそらく命の全体性のことだ。制御できない自然の流れと言ってもいい。その全体の流れを「私」が変えることはできないが、関わることで僅かな「(うご)き」は生まれる。時々刻々起こりつづける運きの連続が我々の生きる「運命」である。ちなみに天命は運かず元々決定済みと見るのが「宿命」論だが、私は賛同できない。
 そして天命は「私」を含んで運きながら流れていく。むろん「私」に都合のいい流れもあれば不都合なことも起こるだろう。人は誰でも自分中心にしか世界を見ることができず、全体に常に誰にも見えぬまま全体の調和を求めるのだから当然のことだ。
 じつはお守りや御札に込められた祈りとは、この全体の調和なのである。どんな出来事も、原因は一つではなく全体性の流れのなかでやむを得ず起こった、いわば天命だ。霊験あらたかな厄除けグッズも事故や災難を未然の防ぐことはできないが、遭ってしまった災難を「天命」と捉えることで心だけは自由を取り戻す。祈りのグッズを眺め、そうしてハッと心の自由に気づきさえすれば、その後の運命にもまた積極的に関われることだろう。
 運命に流されるだけでなく、まずは流れを受け容れ、流れの上に立つことを孟子は「立命」と言った。今後は災厄が益々増えるだろうが、事前には人災と捉えて生活を改変し、事後には天命と思いなして流れに従容と立ち、心の自由だけは保っておきたいものだ。

「てんとう虫」 2021年7+8月号