天真を養う (3)
命を養う上で、最も重要なのは呼吸だろうと思う。普段は自律神経が勝手に制御してくれるから意識しない人も多いが、意識すれば呼吸は変えられるし、それにつれて心やからだも大きく変わる。
不安や怒りに襲われると、呼吸は自然に短く浅くなり、からだにも妙な強張りが生じている。ならば呼吸を深く長くしてみるとどうか、というと、あら不思議、その状態で不安や怒りを維持することはできない。むろん呼吸に思い及ぶ冷静さが残っていれば、だが。
『養生訓』の貝原益軒翁は「心が身の主」「身は心のやっこ」と仰るが、心身はそのような主従関係と見るよりも、呼吸でつながった本体と影くらいに思ったほうがいい。お互いに相手を裏切れないし、時には一体になる。禅では「身心」と「身」を先に書くが、これはアプローチの優先順位だ。身だけを相手にしたほうが心も素直に変化しやすい。
身心をつなぐ呼吸の大切さについては、多くの宗教が自覚的だった。なぜなら聖典を唱える習慣は殆んどの宗教に共通するし、釈尊に至っては『アーナ・サティ・スートラ(入息と出息を意識する教え=大安般守意経)』まで残している。
じつは経典を唱えることは、そのまま理想的な呼吸法にもなっているのである。我々はなるべく長く息を吐いて唱え、なるべく短く吸ってお経が途切れないようにする。長く吐くには長く吸ったほうがいいと思うかもしれないが、むしろ短いほうが酸素交換効率がいいことは生理学者が検証している。
しかも読経中に我々の意識はどこにあるかというと、たった今唇から出た音にあり、すぐに離れて次の音に無意識に移る。いわばタッチ&リリースの連続で、どこかに意識が居着くとすぐにお経を間違えるのである。
このように、変化しつづけるのに意識を載せつづけ、思考を停止した状態を「観(=ヴィパッサナー瞑想)」という。今流行のマインドフルネスも同じ原理で「今にいつづける」ことだ。
益軒翁より五十歳あまり年下の白隠慧鶴は、臨済宗中興の祖と言われる偉い方だが、多くの人々に『延命十句観音経』という短いお経の読誦を勧めた。人は、息を吸いながら身構え、息を止めて考え、息を吐きながら受け容れる。吐く息の鍛錬は、そのまま観音さまの如き慈悲と智慧、そして應化力の涵養なのである。
「観世音、南無佛、與佛有因、與佛有縁、佛法僧縁、常樂我淨、朝念観世音、暮念観世音、念々従心起、念々不離心」この十句を唱え続けながら、意識を臍下に一点(全身の中心)に運んでみよう。すると液体の入った袋の中心を持ったように、全身を脱力する。脱力こそ天真の力を揮う最高の環境。どんな困難にもすぐさま全力で対応できるはずである。
「墨」2021年5・6月号