あらまほしき日本人


 昔、狼に育てられた少女がいっという話をご記憶だろうか。インドで発見されたアマラとカマラである。狼養育の是非はともかく、この話の衝撃は、ヒトはヒトから生まれただけでは人間にはなれないという認識を促したことだった。二足歩行や食事の仕方、また何より言葉や生活を学ぶことでヒトはようやく人間になり、人間らしい文化や寿命も享受できるのだと彼女たちは逆説的に示してくれた。
 ならば日本人というのも、しかるべく学ぶことでようやく日本人に「なる」のではないか。鈴木大拙翁は、日本人の基調をなす仏性として、禅の「無心」と浄土教由来の「無縁の慈悲」とを指摘した。それは仏教徒である私には嬉しいことだが、遡ればもっともっと原型に近い日本人像が『古事記』や『万葉集』に見いだせるはずである。しかしそう思いつつも『万葉集』研究の泰斗中西進先生にお目にかかることになり、ただただ狼狽している。
 以前、『万葉集』を眺めていて、「夏樫」という表記に驚いたことがある。和語を同意の文字が見当たらなかったのだろう。やがて「懐」で代用されるようになるが、「懐」には本来そのような意味はない。「梵書坑儒」の中国人は、どだい日本人ほどなつかしまないから、そんな感情を示す文字はなかったのだろう。
 「銀杏」と果実で表現する中国人に対し、「ゐてふ(とまった蝶9」と葉の形で名付けた日本人の感性。「木の子」と見た日本人と「茸」と「耳」を感じた彼ら。蝶々が『万葉集』に登場しないのはなぜか、など、俗な興味は尽きず、また万葉人の恋の作法も知ってみたい。 
 もはやこの国の表皮はすっかり欧米追随だが、私は日本人の骨格とも言うべき基本ソフトが知りたい。そしてこの国をもっと好きになりたい。

中日新聞 2021年6月24日