天真を養う (5)
前回は意識を臍下に集め、身心の安定を図る白隠禅師の「内観の秘法」を紹介した。意識をどこかに集めることは、「求心」と謂い、禅定(あるいは三昧)へ向かう第一歩だが、あくまでも初心者向けの教え。修行者は続けて「放心」を学ぶことになる。これはいわゆる放心状態とは違うので、注意を要する。一旦集めた心(意識)を次第に放散し、偏りなく全てにゆきわたらせた状態である。
江戸時代初期も沢庵宗彭禅師は、将軍家の兵法指南役であった柳生宗矩に示した『不動智神妙録』で、「止る心を迷」あるいは「煩悩と申し候」と言い、「心がいずくにあるともあれ」ぬ山田の案山子のような状態こそ理想だという。
剣禅一致の立場で説かれた同書では「心を一所に置けば偏に落ちる」と言い、「思案しれば思案に(心が)取らるゝ程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々止めずして、其所々に在て用をば外さず叶うべし」と教える。いわば隙を見せれば斬られる時代の話だが、所々に思いを残さずその時に叶えてしまい、思い返してはいけないというのだ。
不動智とは、海の中心部が不動であるように、周縁部の絶え間ない動きに支えられている、つまり周縁部まで心がゆきわたり、それぞれの心がどこにも止まらない状態である。総身に心が遍在していれば、手を使うときは手にある心に任せればよく、足を使うときは足の心に任せればいい。本体は不動なのだが、周縁は自在に動く。千手観音があんなに多くの手を使いこなせるのも同じ原理なのだ。
この沢庵和尚の教えを受けたのが左の「枯木鳴鵙図」を描いた宮本武蔵(一五八四~一六四三)である。二刀流で知られる負けず知らずの武芸者だが、「二天」の号で見事な書画も残している。
減筆体と言われる緊迫した筆は、目線を自ずと枝先の鵙本体に誘い込む。しかし鵙に見入るようではすぐに武蔵に斬られてしまうだろう。晩年に武蔵が書いた『五輪書』水之巻には、「兵法の目付ということ」と題して次のようにある。「敵の太刀をしり、聊かも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也」。さぁ鵙ばかり見ていないで、目線を動かさないままゆっくり下と左右も見てみよう。枯れ枝を這い上がってくる虫の姿に気づいただろうか。また背景には池らしい水辺があることも分かってくるだろう。
「目の付けやうは、大きに広く付くる」事として、武蔵は「観」「見」の二つの見方を示す。「観」は放心後の全体観、「見」は求心的な視線である。そして「観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事」が肝要だという。なにも兵法に限らない。これは世界との真っ当な向き合い方だろう。孟子は「放心を求めよ」と言ったが。天目山の中峰明本は「放心を具えよ」と言う。沢庵和尚と同じく、私も後者が好きだ。
「墨」2021年9・10月号