東京五輪を考える 聖火リレー

まるで刹那的な祝祭   撤退は今が最後の機会

 新型コロナウイルス感染拡大で、東京五輪の聖火リレーは大阪府内の公道での走行が中止された。松山市や沖縄本島でも同様の処置が取られるなど混乱の中、五輪開幕へ向かう日本。三春町在住の僧侶で芥川賞作家、玄侑宗久さんが寄稿した。

 今回の東京オリンピックは、当初「復興五輪」と銘打ち、復興なった被災地を世界に示すというスローガンで二度目の誘致に成功した。しかしさすがにトリチウム入り処理水が膨れ上がる現状では世界に示しにくいのだろう、新型コロナウイルスの感染が拡大すると「新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして」開催すると言いだし、そのうちジェンダー平等も看板に掲げた。
 福島から眺めていると「復興五輪」という大義がかすんできたわけだが、まあ、とにかく徹底した感染対策を進め、なんとか開催できる環境を整えてほしい、少なくとも第三波の下降中までは、そうした淡い期待も少しは持っていたのである。
 しかし二度目の四月になり、変異株の流行が顕著になってきても、この国は検査機関の充実に大予算を投ずることもなく、相変わらず飲食店への時短要請と協力金、支援金、マスク会食などしか手がない。いわば手詰まりなのだ。
 先の大戦を思い起こすと、手詰まりになってからの日本のやり方は壮絶だった。人間魚雷、そして神風特攻隊。もはやお国のために命をささげるという大義しか残っていなかったのである。
 少しでも五輪開催の可能性を本気で探る気なら、島根県知事の採ろうとした「聖火リレー中止」というのも一法ではなかっただろうか。しかし国は、おそらくそれを五輪に水を差す態度と見たのだろう。前回の東京大会が、一カ月かけた聖火リレーでようやく盛り上がってきた記憶が忘れられないのかもしれない。
 しかし変異株が増加し、病床数が再び逼迫しはじめた現状で聖火リレーを強行することは、まるで特攻隊のようではないか。既に望みの持てない戦況での、指揮官の自己陶酔か「やけくそ」としか思えない。今やろうとしているのは、開催の機運を盛り上げるため、感染拡大もいとわないという刹那的な祝祭ではないか。
 実は前回の東京五輪でも感染症に悩まされた。十月十日開催を目前に控えた八月下旬、千葉県習志野市でコレラが発生し、死者まで出たのである。しかし厚生省(当時)は即座に習志野周辺の住民約一万一千人の検便と首都圏での二十六万人の予防接種を実施、ほぼ一週間後の九月一日、終結宣言を出したのである。
 なんという行政の機動力だろうと驚く。先の五輪は他にも東海道新幹線、あるいは東京美化運動という遺産を残した。ゴミだらけだった東京にポリバケツのゴミ箱が置かれ、清潔な街に生まれ変わったのだ。
 今回は一体何が残るのか、いやそれ以前に本当にこのまま突っ込むつもりなのだろうか。
 北朝鮮は早々に参加辞退を申し出た。あの国の味方をするつもりはないが、変異ウイルスに満ち、五輪関係者に提供するという中国製のワクチンも断ったこの国で、自国民を危険にさらしたくないというのは難癖のつけようがないマットウな判断ではないだろうか。
 政府はこの期に及んで「Go To」を断念する様子もなく、もはや狂気の沙汰としか思えない。死亡率がインフルエンザを大きく上回るこの病をなめないほうがいい。
 本土決戦や玉砕を避け、五輪から撤退するのは今が最後のチャンスではないか。予算一.六兆円余りは貧困な子供たちやコロナで失職した人々にでも使えばそれこそ大きな遺産である

2021年4月16日 共同通信社より配信