希望の仕組み


 気がつくと、私の斜め後ろあたりでニコニコ佇み、同じ風景を私の後頭部も含めて見つめている。平林さんに初めて遭ったときの印象である。どこにでもすっと潜り込んでしまうのが彼特有の力だと思う。
 今回の写真集には、横川謙司氏の言葉(Letters)が入ったという。空間的にも時間的にも放射性の強い彼の写真集たちを、言葉が限定しすぎないか、私は不安を感じつつ頁を捲った。が、杞憂だった。言葉はあくまで限定するツールだが、ここではディレンマや矛盾、そして人為も含んだ自然の複雑さを充分に踏まえて抽出されていた。割り切れなさ、複雑さをむしろ明確にしてくれたのである。
 それにしても、東日本大震災から10年が経ち、この本に出逢って思うのは、すでに「歴史」の一齣になりつつある当時の記憶のことだ。我々は、こうした記憶を抱えたまま、熊本地震や西日本豪雨、台風19号などを体験し、更にはコロナ禍の今を生きている。塗り重ねられる時間のなかで、ひとりこの時の記憶だけが変わらずに保たれるはずもないだろう。これらの光景はさながら言葉によって「供養」され、「今」に蘇生したかのようだ。
 「供養」とは、記憶を知らぬ間に変質させ、新たに歩みだすための行為である。二人のコラボレーションは、きっと非定型の供養だったのだろう。
 ふと、昔、道場で老師からいただいた奇妙な公案を憶いだした。「灯(ともし)火(び)の消えていずこへ行くやらん」という句に、下の句をつけて歌を完成せよ、というのである。私は「明くれば元の朝陽なりけり」と応え、「よかろう」と言っていただいたのだが、それはどんなに悲惨な状況でも「希望」を持て、との教えであったかに思える。
 おそらく地球は、地震でも津波でも台風でも原発事故でも、いやCOVID-19で人間がどれだけ死のうと、平気なはずである。
 しかし人間は違う。些細なことでもせめて「パンドラの函」の底に、希望を見いだせなければ生き続けることさえ難しいのだ。、朝陽とは、あまりに非情で平等だからこそ、なけなしの弱い心にも希望を芽生えさせるのではないか。
 太陽という恒星の前で、人の苦悩や悲しみ、恐怖や心細さなどはあまりに微細で取るに足りない。しかしだからこそ、人が誰かを切なく愛おしく憶うとき、超然たる「陽」を遠慮もなく、希望の如く仰ぎ見るのではないだろうか。
 私はこの本に、「希望の仕組み」を教わった気がする。

「陽」(草思社) 解説文