天真を養う(7)
隻手
臨済禅の道場に入門すると、まず老師から初関と言われる公案をいただく。初関とは最初の関所。これにより、禅僧としての威儀や作法だけでなく、心の在り方も習得させようというのだ。
私は「狗子仏性(趙州無字)」という伝統的な公案を授かった。ある僧が趙州和尚に「狗にも仏性はありますか」と問う。すると趙州は「無」と答えるのだがその「無」とは何か……。ほかに「父母未生以前の本来の面目」という公案も用いられるが、要は有無や父母という二元に分かれる以前の命そのものを提示せよと迫るのである。
我々の脳は、二種類の違ったはたらき方をする。一つは二元論を駆使し、あらゆるものを分析して精密に判断しようとする「分析知」。これは成長と共にどんどん進化し、我々の日々の認識や分別を形成する。ところが一方で、そうした認識や分別を「妄想」と言って切り捨て、「仏に遠くなるぞ悲しき」と慨嘆する見方がある。これがつまり「瞑想知」とも呼ぶべきもう一つの脳機能で、初関はそれを習得、いや取り戻すために関所なのである。
臨済宗の公案体系を組み直した白隠禅師は、新たな初関として「隻手音声」を創作した。両手を打てば音がする。ならば片手ではどんな音がするか、聞いてこい、とうのである。実地に弟子たちで試し、禅師は「狗子仏性」よりも導きやすい、肚に落ちやすいと自讃している。
私の師匠である平田精耕老師もよく用いたようだ。ある日の講席でこんなことを仰った。「隻手の音と言われてワシの横っ面を殴ろとする奴がおるが、そんなんでは透たんからな」。導く側も大変である。
さて瞑想知について、少しく補説しておこう。はっきり申し上げれば禅は、前頭前野での自己認知をはじめ、大脳皮質のはたらき全般をあまり信用していない。外界の認識さえ自己というフィルで歪めるし、それは世界と直に向き合うのを妨げてさえいる。むしろ辺縁系や脳幹部などが管理する命そのものこそ大切で、それを妨げる脳機能には時に休んでもらうほうが天真も養えるというものだ。換言すれば坐禅とは、ああでもないこうでもないと常に過熱する「分別知」を鎮静化させ、薄靄のなかに稲妻が走るように、直観がはたらきやすい状態になる稽古、とも言えるだろう。
子どもは母親を、ただ「この人」と理屈抜きで諒解している。パーマをかけた、色白で、小太りの、などの形容詞は一切要らない。命が命を直接把握するためには、是非とも片手の音を聞く、いや、憶いだす必要がある。ちなみにこの絵の左隅には、南天棒こと中原鄧州老師お添え書き(「此の隻手は白隠の真筆に紛れ無きを證明す」)があるが、落款はないものの白隠自筆の希少な図柄でる。
「墨」2022年1・2月号