原発事故が起こり、主に故郷から避難した子どもや若者を支援しようと「たまきはる福島基金」を立ち上げたのは二〇一一年の八月だった。立ち上げたといっても私が
旗を振ったわけではなく、県の林業会館にいた渡邊卓治さんやその同級生、管野光昭さんらが来山され、理事長になってくれと頼まれた。それまで一面識もなかった方々だが、その心意気と熱意に
絆されて引き受けた。それから十年と半年が経ったことになる。
その間、三千七百ほどの個人や団体から約一億円のご寄附を受け、七十四件の事業を支援してきた。一口に三千七百件と申し上げたが、これは大変な数字である。一年三百六十五日に均せば、十年間毎日誰かが必ず寄附してくださった勘定である。月々給料から定額の寄附を続けてくださった方もあるし、年に一度、まとめてという方もあった。なかには遺産を寄附するよう言い残して逝かれた方もあり、三拝九拝したい気持ちである。
支援事業の申込は基本的い双葉郡八町村と川俣町、飯舘村などの町村長を通して受け付けたのだが、それ以外の申込もあり、結果としては各種研修や盆踊り、子どもたちのキャンプなどの経費支援ほか、図書費や作文コンクール協賛金などじつにさまざまな活動を後押しすることができた。この場をお借りし、あらためて支援してくださった皆さんと各行政担当者に心から感謝申し上げたい。
そう、お察しのとおり、「たまきはる福島基金」は解散になるのである。じつは一月、解散のための臨時会総会を予定したのだが、オミクロン株の感染拡大で中止、結局は書面決算で解散動議が諒承された。特に不定期で継続的なご寄附を入れてくださる方々にご連絡をしなければと、この場をお借りした次第である。
なぜ止めるのか、これはなぜ続けてきたかを上回る難しい問いだが、端的に申し上げると状況の変化、あるいは心境の変化と申し上げるしかない。震災当時の小学校五年生が今年は大学を
卒えて社会人になる。いま住む場所はすでに避難先ではなく、行こうとするのも自ら選んだ道に違いない。
ラジオ福島の深野健司アナウンサーは数年前から「帰還」という言葉を使わなくなり、最近は更に意識的になったという。人生の選択肢を勝手に絞るのは失礼だというのだ。
確かに
最早、福島県の若者たちは次のステップに進んでいる。「戻る」のではなく、「行く」場所の選択肢が増え、さまざまな過去の経験も踏まえて豊かな現在を生きつつある。人生は常に「展開」するもの。そう思うと、補助輪を外して逞しく自転車をこぐ無数の若者たちの姿が見えてくるようだ。一度乗れるようになった自転車は、久しぶりでも必ず乗れる。外した補助輪が再び必要にあることは、ない。
福島民報 2022年2月20日