苦楽の尾ひれを捨てる
心を占める嬉しいことも、悲しいことも、抱え込まずに手放すことが大切です。
『老子』第十章に、次のような言葉がある。「
生じて
有せず、
為して
恃まず、長じて宰せず、是を
玄徳と謂う」。要は「徳」についての規定で、最も深遠な徳(玄徳)は、生みだしながらその結果を所有せず、どんな立派な行ないも自ら誇ることなく、たとえ何かに長けていてもその場を仕切るようなことをしない、というのである。
普段から私はこの言葉を愛唱するように反芻している。四文字熟語が四つで覚えやすいこともあるが、なによりその実現が難しく、永遠のテーマのように思えるからである。
自分の業績を誇らない(為して恃まず)とか、その場を仕切らない(長じて宰せず)などは、心がけていなければさほど難しくはない。ただ私自身感じるのは、今の私がそうできるのは、忙しすぎるせいではないか、ということだ。今日明日明後日くらいしか考えられず、過去を振り返る余裕もあまりない。そんな状態だと、いきおい過去の自慢話にもならないし、どこに行っても必要以上に期待される振る舞いをしなくなる。ある意味、自分の時間を減らしたくなくて、はからずも徳があるような様子に見えているのかもしれない。
昔、ロンドンブリッジの設計者が橋の近くの介護施設に入り、窓から見える橋が自分の設計であることを誰も知らないため、入居者や介護職員たちに毎日自慢げに話し、すぐに妄想と思われ、「はいはい、わかったわよ、お爺ちゃん」などと言われるうちに本当に認知症になってしまったという悲しい話をどこかで読んだことがある。
やはり人が自慢話をしないためには、少なくとも身近な誰かがその業績や来歴を知っている必要があるのだろう。自己主張やその場を仕切るといった欲求は、孤独のうちに膨らむのではないだろうか。
生じて有せず
どう転んでも難しそうなのは最初の「生じて有せず」である。これはたとえば子供にもモノにも思いにも適用される。つまり、子供を産み育てるのは大事業だが、子供を我が物と思い込んではいけない。当然、自分の作った製品も作品も、自分の所有物ではない。さらには、折にふれて浮かんだ思考や感情を抱え込まない。これぞ禅で言う「
放下」の心境である。
冷静に考えればわかるはずだが、世に生ずるすべてのものは、自分のものではない。子供は何より授かりものと思うべきだが、親が所有物と思い込むことで虐待も始まるのではないだろうか。また自分で作った製品や作品に愛着が湧くのは当然だが、これもお抱え込まず、脱ぎ棄てるように前に進まなくてはならない。禅では「
没蹤跡」というのだが、創造のたびに我々は過去を忘れ、「創造の源である混沌」へと戻っていくべきなのだろう。
「放下」と申し上げたが、私は呼吸を意識するたびに息を吐きながらこれらを吐き出そうと意識してみる。坐禅中の呼吸は、とにかく長く深く滑らかに吐いていくのだが、その要領でいま心を占めている思いを手放してゆくのである。
嬉しいことも、悲しいことも、腹立たしいことも、殆どの場合はどこかで事実や記憶が増幅されている。おそらく喜怒哀楽を感じる心には、アンプが内臓されているのだ。
仏教では梵語で「ウペークシャー」と言うのだが、極端な「苦」や「楽」はその尾ひれはひれを「捨」て去るべきだと考える(ウペークシャー=捨)。尾ひれの取れた平静な心こそ、新たな生活の始まりなのである。
捨てることさえ欲望なのか
おそらくこの特集は、モノを捨てることの大切さがテーマなのだろう。近年の「断捨離」ブームも手伝い、思い切ってモノを捨てることに快感を感じる人も多いような気がする。
確かに大量消費時代の反動として、そんな感情が湧くのもわかるが、縁あって自分の許にやってきたモノの中には、自分でも気づかないほど心を支えてくれたモノもあったりする。心は単独では成り立たず、常に外側のモノに依存して発現することを忘れてはいけないだろう。
時には「縁を捨てる」あるいは「縁を切る」などと言う人にも出会ったりするが、いったいどうするのかと思えばスマホの住所録や電話番号を「Delete(削除)」するというのだ。「断捨離」によって大量消費に抵抗するならまだしも、これでは人間関係まで消費財にしてしまうだけではないか。そしてここでは、「捨」てることさえ欲望なのではないか。
人によってはモノの「断捨離」も必要かもしれないが、やはり大切なのは気持ちの尾ひれを「捨」て、「生じて有せず」の心構えを保つことではないか。
「断捨離」も、心を引き裂くようにモノを捨てるのではなく、先に心を吐き出しておけばきっとスムーズに行くだろう。ほら、いま吸った息を、吐きながら何を捨てる?