指の真面目(しんめんもく)

 下瀬さんの写真をしばらく眺めているうちに、なんとなく「偶然と必然」という言葉が浮かんできた。偶然に満ちた現実に、広く開かれた心の門戸を感じると同時に、それを扱う手つきと技術には必然とも言うべき方向性と手堅さが見える。そのせいなのか、頁を捲るたびに、テーマが深まるというより、拡散と収束が同時に起こる。まるで自分が末期に見る「走馬燈」のような印象なのである。
 さまざまな作品に一貫しているのは、下瀬さんの人生、と言うしかない。そんなテーマがあるかと言われそうだが、それ以上のテーマはないのではないか。
 植物や小さな動物、そして人間の営みが、ここではそれぞれの「法」に従って粛々と行なわれたり、躍動したりしている。その本質を下瀬さんは写し取り、妙な人為を加えず並べていくのだ。
 世の中はもしかすると、すべてが必然として変化推移しているのかもしれない。それが仏教の説く「縁起」だが、その全体を看取れるのは限られた覚者にすぎない。そうであるなら、我々は一見偶然と思える出来事をも寛大に受け容れることで「縁起」の実際に近づくはずだが、世はそれと反対方向に進みつつある。つまりAIなどの発達により、必然と思える「想定」を重視する方向に極端にシフトしてきたのだ。
 中途半端な「理」による理詰めの演繹は、人を驚くほど苦しめる。四十歳未満の死因の第一位が自殺だというこの国の現実は、なによりそれを物語っているだろう。「犬も歩けば棒に当たる(相棒に出逢える)」という楽観を、人々は失ってしまったのだ。
 しかし下瀬さんの写真たちのランダムとも思える配列は、まずその中途半端な理を拒否する。むしろ現実の認識に近い偶然性を感じさせるのである。HappyとHappenには同じ語幹が含まれるが、Happyは間違いなく偶然性に対する驚きを含んだ感情だろう。作者はそのことに、明らかに意識的だと思う。
 タイトル『つきをゆびさす』は元々『楞厳経(りょうごんきょう)』の言葉で、月は「法」、それを示した指は教え(経典)を意味する。下瀬さんは写真という手段が指だというのだが、つまり指の先の月を見よ、法をこそ掴み取れと言っているとも受け取れる。
 坂口安吾は『日本文化私観』の中で、精神こそが大事であり、それによって出来上がった仏像も建築も書籍も、精神がある以上燃やしてしまっても困らないと、大胆にも言い放った。しかし本当にそうだろうか。おそらく下瀬さんも、そうは思っていないはずである。
 人は偶然とも思える(よすが)との出逢いによって心(精神)を生ずる生き物ではなかっただろうか。無数の仏像がなければ仏教もこれほど寛容な宗教にはなれなかったのではないか。そしてこの写真を見なくては芽生えない感情も、我々は味わっているはずである。きっと下瀬さんは、縁の大切さをとくとご承知なのである。
 では下瀬さんの写真が指さす先の月とは何だろう?
 下瀬さんの人生、では受け容れてもらえないだろうから、「生の営み」とでも言い換えてみようか。ヘビや蝶やトンビにも、それぞれの「法」による生が大まじめに営まれている。少女もおばさんも、僧侶も神官も、それぞれが遺憾なく面目を発揮している、そう、大「まじめ」というより、それぞれの「真面目(しんめんもく)」を下瀬さんは見せてくれているのではないか。
 偶然を受け容れ、できるかぎり自己を無化して対象を活写する、そういう作法を感じるのだが、却って撮影者を感じさせる、不思議な写真集である。
 ちなみに「指月布袋図」を描いた仙厓和尚は、二度も大蔵経を通覧している。決して「指」を疎かにはしなかったということだ。もしかすると、指にこだわることで初めて月はその正確な位置と姿を見せるのではないか。あまりに遠い対象を指さす場合、その誤差は他の惑星に向かうほど増大する。
   

下瀬信雄写真集『つきをゆびさす』東京印書館