十二月七日、久しぶりに小説集が上梓された。タイトルは標題の『桃太郎のユーウツ』(朝日新聞出版)。この八年余の小説をまとめたものだから、やはり嬉しい。今日はこの件について書いてみたい。
そもそも桃太郎とは何者で、鬼とは何なのか。これは高校生のときから気になっていた。じつは安積高校時代、私は剣道部に所属する傍ら、「桃太郎研究会」という同好会を作ってしまったのである。
各地各時代のさまざまな「桃太郎」を読んで思ったのは、なるほど桃太郎とは、日本という国家の敵をやっつけるべく創造されたということ。ならばその時代の「鬼」は誰なのかが、常に問題になる。
上古には微税の使者たる坂上田村麻呂などがやってきて、それに逆らう土着の人々は「鬼」呼ばわりされた。国内の「鬼」退治に没頭する戦国時代が終わると、今度は「毛唐」や「鬼畜米英」に目を転じる。しかし問題なのは、現代日本における「鬼」、国家の敵である。これはいった何だろう。
禅を学ぶようになると、鬼が邪気を表すのに対し、「桃」は無邪気の象徴だと知ることになる。つまり邪気で対抗したのではキリがない。無邪気こそ無敵で、「桃太郎」とは本来「鬼」を目覚めさせない無邪気な存在なのだ。禅語では「瞋拳も笑面も打せず(瞋りで振り上げた拳も無邪気に笑った顔は打てない)」などと言う。
元来、「鬼」とは体制側が勝手に名づけた呼び名である。福沢諭吉などは、我が子を教育するために書いた『日々のをしへ』のなかで、「桃太郎が鬼ヶ島に行きしは、宝を取りに行くと言へり。けしからぬことならずや」と憤慨している。つまり。鬼が宝を奪った事情は知らないが、鬼が大事にしていたその宝を奪うのは盗人に等しい、ましてそれをお爺さん、お婆さんにあげるなど欲のための仕事で「卑劣千万」だというのである。
もしも桃太郎がそれを知れば、当然ユーウツになることだろう。鬼の生活も、想像してしまうに違いない。しかし鬼に同情していては、きび団子で連携した同盟国などに顔向けできなくなる。
東日本大震災以後、コロナ禍、ウクライナ戦争、そしてパレスチナ戦争と、すでに人々のユーウツは鬱積して爆発し、鬼が跋扈しつづけている。ユーウツこそ「鬼」を産みだす装置なのだ。さぁ、どうする桃太郎。
標題作以外の五作でも、放射能のユーウツ、被災者のその後のユーウツ、そして自らに潜む「覇権」というユーウツ、コロナ後の臆病な社会でのユーウツを描いてみた。ユーウツの正体を知ることで、少しでもユーウツが深いところで宥められればこれに過ぎる喜びはない。
ご一読を願い上げる次第である。
福島民報 2023年12月10日